2009年9月7日月曜日

ローマの軍道とローマ人の解放性


ローマ郊外のカタコンベ観光や、足を伸ばしてナポリ・ポンペイのツアーに行くと、途中2300年以上前にローマ人が作った高速道路を見る事ができる。アッピア街道という名の軍用道路であるが、これこそ「ローマは1日にして成らず」という言葉が実感出来る遺跡の一つであろう。
 
今世界は欧米がリードしているが、その基はこのローマの軍用道路にあるかも知れぬ。たかが道路かもしれぬが意外と奥が深い。その軍道の延びと共に高いギリシャ・ローマ文化が当時の蛮族であった欧州諸国の中に入り、野蛮国が文明化された事を知っておいて損はない。
 ヨーロッパおよびその支店のアメリカが世界史をリードする基が道路によって出来たと言っても過言ではなかろう。

先のアッピア街道はローマ帝国がイタリア半島を統一して行く過程で作って行ったものではあるが、注目して欲しいのはこれが近郊サムニウム人との戦いの真最中、つまり自分達が勝つとも負けるかも分からない戦いの最中にローマ人が作ったという事実である。
 塩野女史の著「ローマ人の物語」の中にローマ元老院の政治の巧みさや先見性などが語られているので詳細は省くが、一つだけローマ人の開放性というところに着目して述べてみたい。
 
西洋史を少しでもかじった者なら次の有名な言葉は知っていよう
   「高い文化を誇ったギリシャが何故に文化の低い田舎者のローマに征服されたか」。
 欧米の政治家たるや必ずローマ史を学ばねばならぬと言われる名言である。本当は日本の政治家にこそローマ史を学んで欲しいところだが。 
 アリストテレスの「アテネ人の国政」を読むと、今の我々が心しなければならない箇所を一つ探す事が出来る。それは「ギリシャ人の閉鎖性」である。アテネやスパルタが既得権益である市民権を自分達のポリスに貢献した外人には与えなかった事だ。
               歴史は我々に教えている
 「ギリシャポリスの城壁は分立、閉鎖をもたらすのに反し、ローマの道路は開放性を物語る」と。

古代ローマの歴史を見ると、ローマの為政者はそれが当然の如く他民族と手をつなぎながら大きくなっている。初期ローマが発展して行く姿で一番旅行者に分かり易いのは、ローマ村と隣のサビナ村の抗争であろうか。
 若い女性が少なかったローマ建国初期の頃、隣のサビナ村の女性を嫁として略奪した伝説である。好んで芸術家達が材題に取り上げるモチーフだ。フィレンツェ政庁前広場にジャン・ボローニアの彫刻として観光客の目を楽しませている。

そのサビナ村の男達が娘達を奪い返そうとして両者が戦争になろうとした。その時ローマ人の妻になっていたサビナ女性が両者を分けて和解を計ったという伝説があるが、こちらの伝説はパリのルーブルにプーサンの絵として画かれている。 この絵はナポレオンの戴冠という有名な絵の傍にある。
 上記2作品は伊、仏に行くと見られるので機会があれば見て置いて損はない作品である。

サビナ村との抗争などはむしろほほえましいエピソードであり、もっと血なまぐさい抗争の歴史がローマの発展途上には一杯あった。シーザーのガリア戦記一つ読んでも負けた側の戦士が奴隷としてローマ軍兵士に与えられたり、売られた事などが生々しく描かれている。
 しかしその奴隷までが開放奴隷として後に市民権を得て行く姿もローマ史で学ぶことが出来る。戦いに敗れた相手を許し、許すばかりでなくローマに有益と思えば科学者ばかりか敵の将軍にまでも市民権を与える度量の広さがローマ人にはあった。

話をローマの軍道に戻す。道路が出来るとローマの駐屯地が出来る。その結果として治安が良くなる。治安が良くなれば道路を使って物資が動く。それまで貧しかった土地も特産品を動かす事により昔より豊かになる。またローマ法で国家を運営したゆえ異民族にとってもローマの下にいた方が公正で安心でき、税金も10分のⅠ税だけとなると前の支配者より搾取も少ない。
 皆こぞってローマの下に付きたくなるのも解る。それゆえ北はスコットランド、南はモロッコやアルジェリア、リビア、エジプト、中近東、南ロシアまで版図を広げられたのであろう。

古代ローマから現代日本に目を向けてみれば日本は郵政や年金で揉めている。その年金も少子化が進むと破綻するかもとの事。日本の市民権をもっと外人に与えやすくするか、少子化でも純潔日本人で行くのかどうか、ローマの開放性と比較しながら識者と議論したいものだ。
    「アッピア街道 作ったローマはアッパレー」 てか
                         詰まらない落ちで失礼しました。


PS:写真は現在のアッピア街道

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