2010年10月3日日曜日

スイスで思うこと

スイスといえば何がすぐ浮かぶだろう。自然を利用した観光業、時計などの精密機械工業、牧畜のミルクを利用したチョコ、大都市のそこらじゅうに見られる銀行や保険会社に代表される金融業(GNPではこれが最大らしいが)などがすぐに浮かぶ人はかなりのスイス通。
その中でも今日は観光業の中の一つの例としてユングフラウの登山列車を見てみよう。この列車と施設を見ると、その自然を克服する姿とそれを美しく保つスイス人の努力がこの国の豊かさを作っていると実感できよう。
この列車とは明治11年から16年の歳月を架けアイガー北壁とメンヒの山の壁面内に手掘りのトンネルを堀りヨーロッパ最標高のユングフラウヨッホ駅(3548m)まで引っ張り上げた鉄道のこと。ダイナマイトはあったと思いますが、何せ山の中ゆえ下手にダイナマイトを使うと山が崩れるのか、手掘りでレールを引いたとの事。そのアイガーのトンネル内には2つの窓を開け、そこからグリンデルワルド村や欧州最大氷河などを見降せる装置まで作っている。

その努力たるや本当に頭が下がる。その努力のせいかこの山を目指して世界中から観光客が、夏はその絶景を見るため、冬はスキー客がと押すな押すなの盛況です。
頂上駅からの絶景に驚いた後にもう一度驚かされることがある。それはこの山の頂上の全てのトイレが水洗トイレということだ。この駅の施設にスフィンクスという名の展望台(標高3573m)があるが、富士山で言えば9合目位の所に水洗トイレを作り、汚水を山に残さず下に落とし、ほぼ真水に近い状態にしてから川に流すとのこと。このトイレに皆2度驚く。それゆえスイス中の湖の美しいこと。スイス人の自然へのアプローチの姿勢に我々日本人は素直に頭をたれる。

スイスという国、豊かさとか国民の幸福度とかの統計ではいつもトップグループにいるが実は19世紀初の中頃まではヨーロッパでは貧しい国の筆頭の方に属していたという事実には驚きでしょう。
19世紀中頃というとまだ産業革命がヨーロッパに広まる前です。つまりそれまでの各国の力を比較するには農業が中心。商工業力とか貿易などは産業革命後のことである。日本の江戸時代もそうだが、農業の大きさで国の力を測る頃は山ばかりのスイスなどは一番貧しかった。
ではそれまでのスイスの次男坊以下はどうして生き延びていたかといえば、欧州間の戦争で必要な傭兵として自分の体を売って生き延びてきたのだ。アルプスの少女ハイジの祖父も父も傭兵であり父は傭兵として外国で死んでいるのをご存知か?
(*スイスが傭兵制度を国として禁止したのは1897年のこと。イタリアのバチカン市国だけは例外で、そのスイス人の律儀さと信頼のせいか、名誉職となったバチカン国の警護をスイス人に与えている。写真は16世紀ミケランジェロ・デザインの制服を着
るスイス人傭兵)

フランス革命でマリーアントワネット達を最後まで庇いながら死んで行ったその姿が信用という物を生み、皆からお金を預けられるようになり、それが金融業に発展し、貧しさの象徴だった山川湖がスイスを代表する観光業になり。傭兵で生き残った次男坊たちが持ち帰った時計などが精密機械工業に発展し、これらがスイスの屋台骨になっている。全てこの国が必要に迫られて生まれた産業ですが、かっての貧しさに二度と戻らない為にする努力、ユングフラウの登山列車はその一例だったが、このような努力は日本人が見習っても良いところではないだろうか。九州より小さく、800万ほどの小国が豊かさを保つにはそれなりの努力が必要なのだ。
この国の凄さはまだまだ一杯あるが、後はスイスに来た時に。

そこで最後に一句
「美しく 豊かな国の後ろには、汗と血と、涙の跡が見え隠れ」
今日の一句は少々格調高いかな