2009年12月26日土曜日

クリスマスといえば「聖しこの夜」


クリスマスの時期になると必ず思い出す場所がある。クリスマスには欠かせない聖歌「聖しこの夜」が最初に歌われたオーストリアのチロル地方にある「オーベンドルフ」村の小さな教会、「聖ニコラ教会」である(左写真)。本当にノンビリした寒村の教会で、見た目も中味も想像以上に小さいのに皆驚く。

資料を見るとこの曲は一晩で作った急ごしらえの曲との事。この教会の神父さん(ヨゼフ・モール)が作詞し、学校の先生であり教会のオルガン奏者でもあった(フランツ・グルーバ)が作曲とある。
この曲が生まれた経緯を知ると面白い。聖歌にはそれを伴奏するパイプオルガンが付き物ですが、そのオルガンのパイプをネズミにかじられ穴が開いてしまったとの事。お陰で音が出ずクリスマスに歌う聖歌隊がオルガンの伴奏なしになってしまった。困った2人は教会内にあったギターだけで伴奏できる曲を慌てて作ったのが誕生の由来。
 ギターではパイプオルガンの厳かさや複雑な音は出せないがギターの音だけでも伴奏が欲しいと思った2人のひょうたんから駒であった。裏を返すとギターだからこそ歌いやすいこの曲が出来たのかも知れぬ。
旅行客にしてみれば教会内にずっとこの曲が流れていて欲しいのだが入っても流れず、ただの小さな教会を見るだけなので少し拍子抜けするのが実体験でした。

教会に入ると壁の両側に作者2人の肖像画(写真ではなかった?)が掛けてある。この2人もこの曲がこれほど世界中で歌われるとは思っていなかったであろう。まさに作者冥利に尽きるとはこのこと。
ビートルズの「イエスタディ」などの名曲なども遊びながら口ずさんでいたのがあそこまで名曲になったというのは有名な逸話なので皆もご存知であろう。意外と名作や名曲などはこんな誕生の仕方が多いのかも知れぬ。

旅行客の減るヨーロッパのこの時期、旅行会社も知恵を振り絞り、何とか集客しようと必死なのだが、安くなった飛行機、ホテル代などを売りにクリスマス・ツアーの目玉にと、一味ひねったこの教会を入れるツアーも出てくるようになった。各都市のクリスマスマーケットを巡りながらこんな田舎へ行くのも「オツ」なものではないか。
 オーストリアはアルプスに国土の多くが寄り添っているのでこの時期寒いのだが行ってみたい教会の1つである。寒くてもヨーロッパという方にはお勧め。

人生不真面目に生きている私などこの曲を聴くたびに襟を正すきっかけになる曲なのですが、そこで一句
「サイレント・聞いてもすぐに・飲み騒ぐ」 私も典型的な日本人でした。

2009年10月1日木曜日

 自由主義革命と旧共産圏の国境今昔

89年ベルリンの壁の崩壊後の旧共産圏諸国の自由化への移行は劇的だった。ソビエトの力が衰えるやいなやこぞって自由主義圏にナダレを打ったように鞍替えした東欧諸国に日本のマスコミや左翼系の学者は目を回していた。
自由のない世界がどれほど息の詰まる世界かということを肌で感じさせてくれた革命であった。秘密警察による恐怖とその恐怖の元になっていた密告制度が、どれほど人間性を壊していたかを私も旧共産圏を旅して経験していたので自由主義化がどれほど嬉しいか想像できる。
 ソ連のKGBや東ドイツのシュタージュなどの秘密警察が人々を恐怖させたかは経験した人でないと分からないであろう。ナチスのような過去の一党独裁の政権をまじかに見ていた西欧諸国は、独裁政権と秘密警察(ゲシュタポ)は切り離せないと2次大戦で学んだようだ。

それゆえNATO側としては少しでも東欧諸国をソビエトから引き離すチャンスとしてあらゆる努力をした。その一番大きな政治指導として自由化後には東欧諸国をEUに入れるという冒険を行った。ソビエトの台所事情がガタガタしていた弱みに付け込んでワルシャワ条約機構からの引き離しに成功した。

具体的に西欧諸国が行った事は自ら金を出して貧しい東欧諸国への経済援助を行う。
まずEUに入れると決めたとたんにEUのブルッセル本部は西欧と東欧を結ぶ道を整備するための金を出す。もっともこれらの金は西欧諸国の税金ではあるが。
 EUに入ると決まるとすぐに物資が自由に往来出来るようにと道路のインフラ整備から始めた。東欧へ向かう道路整備などは一番最初に添乗員が気付いた部分であった。それと同時に人件費の安い東欧へ西欧のメーカや資本が次々と入っていき、徐々に東欧の経済を西欧に近づけつつある。

本題の国境の話であるが、添乗員にとっては国境の行き来が一番分かり易く肌で感じる部分である。旧共産圏に行くと一番厄介だったのが国の出入りと入った後の貧しさであったが、革命前はその出入国に時間がかかって皆うんざりであったのに、それが日々劇的に変っていくのが実感されて歴史を感じさせてくれた部分であった。
 EU加入後も当初は旧共産圏側の出入りにパスポート検査があったが、それもあっという間に無くなり今では素通り状態である。気を付けていないと何処が国境か分からないくらい簡素になってしまった。
 EUという一つの国になり国境の壁が次々と取り払われるのはこんなにも便利なものかと感じるのは旅行客だけであろうか。こんな時にこそEUの結束を実感できる。国境ばかりでなく、通貨も経済状態の向上に伴い順次ユーロに変っていき、豊かさを実感できるように成った。

EUの概念を最初に唱えた日本人のハーフであるリヒャルト・クーゼンホーフ・カレルギー氏も草葉の陰で微笑んでいることであろう。自由の騎士、最高の文化人ともてはやされた彼もナチスヒットラーの弾圧でアメリカまで逃げたが、途中カサブランカまで逃げた時に、ひと悶着あったことを1942年にハリウッドが映画にしたのがかの名作「カサブランカ」です。そんな事を知っていてこの映画を見ると感慨深いものがある。
 きっと主演女優のイングリット・バーグマンの美しさにびっくりすること請け合いですが。貸しビデオ屋にあったら見て損はない映画です。

そこで一句  「EUを作った人はカレルギー、あたしゃは左翼のアレルギー」
なんかあちこちがかゆくなりました?

2009年9月23日水曜日

歴史に学ぶペルシャ戦




先日定額給付金12000円何がしを自民党政権から貰ったが、この時ふと2500年ほど前にアテネが活躍したペルシャ戦争を思いだした。
次の故事である。 2回目のペルシャ戦争を前にしてアテネ郊外で銀山が発見され、アテネ国は沸き立った。直接民主主義のアテネゆえ色々な意見が飛びかったのであるが、大勢は次の2つだった。1つは銀を皆で平等に分配すること。2つ目は来たるべきペルシャに備えてこの銀を戦費に当てるというもの。

ペルシャはマラトンの復讐戦(一回目のペルシャ戦)と称して今度は陸と海から大軍をそろえて向かってくるとの情報を得ていた。それでも市民は分配することに傾きかかっていたが、その時異議を唱えた将軍がいた。その男の名は「テミストクレス」  
彼は言う 「皆で分けてもほんの僅かな臨時収入にしかならない。この銀で来たるべきペルシャの艦隊に備えてアテネも海軍を増強せねば。この銀を利用して艦隊を増やそうではないか」と。議論のすえアテネはテミストクレスの艦隊を作る方にかけた。  古代の戦争は負ければ市民は奴隷になるのが常であり,兵力から判断するとペルシャの大軍にはギリシャ側は負けて当然の兵力といわれていた。立ち向かわずペルシャに尾っぽを振るのが当時の常識であったのだ。それゆえこのアテネ市民の大英断は後世の為政者への警鐘として良く引き合いに出される。

結果はアテネ海軍が敵のペルシャの何倍もの艦隊をサラミスの狭い海峡に誘い込んで、見事にペルシャ艦隊を壊滅して2回目のペルシャ戦争をギリシャの大勝利に導いた。それに比べるとわが日本民族はどうなっているのかと憂えてしまう。あれだけの金(給付金)を出すなら、一例としてエコ発電の風力や太陽光、地熱、海の波、等々、化石燃料に頼らないクリーンエネルギーを作り出すインフラに使えば孫子の代まで潤い、経済の活性化には即効性があると思うが。私の様な凡人でもこの位の景気策は出せるというに。

お小遣いをあげるから選挙を宜しくだとぉ~。その小遣いたるや孫の代にまで借金との事。何たる政治家どもの不見識か。アテネの歴史を学べといいたくなる。政治家どもには歴史を学ぶことを義務付けたくなった。 わが民族には「テミストクレス」のような政治家は出てこないのかと一人情けなく思っています?

余談だが、この2回目のペルシャ戦争を舞台にしてハリウッドが「300人」とかいうスパルタ陸軍全滅の映画を作りましたが、この時は日頃対立していたギリシャ・ポリスの8割方が固まりペルシャに立ち向かったとの事。(いつの時代にも日和見や敵に尾っぽを降るやからはいるものです)

この時アテネは後ろの陸側から、つまり北側から攻めてくる何十倍のペルシャ陸軍には最初から勝てずと見てアテネ市内は捨てた。女子供は島に非難させ、男衆は奴隷までも(自由を約束され)船に乗り、海戦に備え、見事サラミス海峡で戦い勝利したとの事。 当然アテネ市内はペルシャ軍に破壊されたが戦後復興された。余談だがこの時に作り直されたのが今に残るパルテノン神殿です。  

陸戦では300人の敗戦に危機感を抱いたスパルタが1つにまとまり、スパルタ陸軍を中心にギリシャ側は優位に立った。補給を船に頼っていたペルシャ側はその船をアテネに壊滅されてこの戦争は事実上終結した。 日露戦のバルチック艦隊の壊滅と同じ経路です。    戦後アテネの隆盛と求心力はライバルのスパルタのジェラシーを招き、2つの国を中心に全ギリシャが戦争となり、お互い自滅していき覇権をローマに取られるという歴史を我々は見る。

 余談だが、ふとこんな諺を思い出した。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」 
  「お小遣い あげても 選挙にぁ落ちちゃった」   これがホントの落ちかいな                                  

2009年9月22日火曜日

レオナルド・ダ・ビンチと最後の晩餐。



ミラノに行くと必ず見る観光スポットがある。サンタ・マリア・デル・グラッチェ「マリアさん・ありがとう」教会である。というよりはレオナルドダビンチの「最後の晩餐」の壁画がある教会と言った方が馴染みか。       
 500年程前ミラノの中心部にある教会の付属修道院の食堂壁にレオナルドによって画かれている。題のごとくキリストが死ぬ前日に12人の弟子と食べた最後の晩餐が絵のテーマである。

その絵は当時流行のフレスコ画法ではなくテンペラ画法で描かれている。その画法とは絵の具の顔料を卵で溶き、乾いた壁やキャンパスに描く方法である。今でも画家達が使う画法の1つだが、フレスコ画よりはるかに色鮮やかであり、今のような絵の具が無かった当時としては最高の画法であったろう。
 話それるが当時流行のフレスコ画とは、漆喰壁が乾く前にすばやく壁に色を置く手法である。乾くと何年経っても色落ちせず長持ちするがスピードが要求される。ちなみにフレスコとは英語のフレッシュにあたるイタリア語である。

レオ君は仕事が遅い上に、幾らお金を貰っていようが、他の事に興味が湧くと、それらに熱中してしまう性格の為か、晩餐の壁画はゆっくり描けるテンペラ画法で描いた。また話がそれるがレオナルドが頼まれた仕事を放っぽりだして熱中した仕事といえば大砲、機関銃、戦車、飛行機などの制作である。

さて壁画に戻る。食堂の壁に描かれたということで調理熱のせいなのか、画面上の卵の蛋白質の付く微生物のせいなのか、詳細は分からないが、描き終わるとすぐ傷み始めたとの事。その上2次大戦の米軍爆撃で天井に直撃弾を食らい3年も雨ざらしの状態にあったという悪条件が重なり、オリジナルの素晴らしさから離れてしまった。
 
NHKの修復模様をみると今回の洗浄作業で過去の画家達が上から何回も書き加えた様子がよく分かった。20年以上掛けて洗っている“のんびり”さにも驚いたが、新たに出てきたレオナルドのオリジナルの綺麗な絵にはもっと驚かされた。
30年前の洗浄時に見たときは暗かったせいか全体が黒っぽく見えたが今は全体的に色が薄く見える。
この絵で私が一番感激したことは、評論家達の「絵のウンチク」ではなく横に置いてあった一枚の写真であった。それは2次大戦の爆撃で壊されたこの教会に土嚢を積み上げ、残った壁画を必死に守るミラノ市民の写真であった。 詳しく言うと真中が吹き飛ばされた修道院・食堂部分の残った2枚の壁(この壁の1枚に晩餐の絵が有る)の絵を守ろうと市民達が土嚢を組んでこの壁画を守っていた写真だ。
 イタリア人の歴史好き、文化好き、芸術に対する心意気である。この辺にイタリア人のすごさと言うか素晴らしさを感じた。(現在ではこの写真はもう無い)

もしミラノに行く機会が有ったら、これは必見。但しこれを見るには日本からの予約か、これを見るツアーに入らないとみられない。もっともイタリアの事、キャンセル待ちという手もあるが、10分見るのに1時間~2時間も使う時間の余裕が必要。
 蛇足だがミラノは仕事には良い所でも観光では今一つの町かも知れぬ。観光の中にミラノが入っているなら別だが、日程に限りが有るならベニス、フィレンツェが入っているツアーを選ぶべき。それほどイタリアは奥が深い。 

ところでこの壁画は女房連れの時、ミラノのブランドファッション店から貴方の奥方の目をそらせるには格好の口実として使える。大方次のような会話になるのが落ちだが!。 
『お前が見たいと言ったから予定に入れたのに、買い物の為に抜けるのか。俺はなんとしてもこの絵を見るんだ。このまま行って見る。買い物に行くならお前一人で行きな。』
本当に行きそうだったら、もう一押し。『ミラノは結構日本人がドロボーの被害に遭うらしいよ、気を付けろよ。』
それでも奥方の方が語学は出来るは、度胸は有るは、なんて言う人は諦めて高い買い物に付き合うのですな。 
       「グッチで愚痴ってグッチャグチャ」 では次回    

風呂と香水とココシャネル

ローマ遺跡を前にいつも考えさせられ事がある。それは欧州ばかりでなくアフリカにまで残る風呂遺跡である。2千年前ローマ人が、あれだけの領土を征服した原動力の一つに、風呂をあげる学者が居るが、ローマ人が征服した地に残る大浴場の遺跡をパリ、ロンドン(バース)は言うに及ばずアフリカの僻地にまで見ると、なるほどと納得出来る。
 その風呂文化がヨーロッパでは廃れ、唯一東ローマ帝国の地トルコ方面に細々と引き継がれ、トルコ風呂という変な形で日本に入って来た事は皆も知っているかも。

欧州にて風呂の習慣が廃れた理由は、中世ペストなどの伝染病が定期的に流行ったからとのこと。風呂は皆が肌を間接的に接する所として一番ポピュラーな場所であったからであろう。病原菌が何であるかが分からなかった時代では仕方がなかったろうが、お陰でヨーロッパ人は中世において随分と不潔な生活を送っていたらしい。

フランスのベルサイユ宮殿でおなじみのルイ14世、彼も一生の間に2回しか風呂に入らなかったことは歴史が示している。しかし彼は風呂の代りに毎日体をアルコールで拭いたと言われている。そのアルコールの中にいつの頃からか香水を入れて出来たのがオード・トワレとのこと。
 また宮殿に常設トイレがなく、「おまる」で済ませていたことを考えると、その臭い消しに香水が発達したというのもうなずける。そう言えば平安貴族も香水の代りに「お香」を使っていたではないか。
貴族の恋には昔から良い香りが必要不可欠だったようである。

エジプト・メソポタミア以来、花が有る所には何処でも香水は作られていたようだが、やはりニース・カンヌ当たりの南仏がブランド的にも有名であろう。南仏の旅には必ず香水工場見学コースがあり、結構買ってしまう。

そこで有名なシャネルの5番だが。ココ・シャネルが北欧を旅した時、その地の白夜を見てイメージした香水だと言うのを何処かで読んだ事が有るが、真実はいかがなものか。どうも売らんが為めの作り話の様な気がするが。
 私も白夜は経験したが、回りが寝ているゆえ、ひたすら「静けさ」しか記憶にない。尤も愛する2人で行けばシャネルの5番の華やかな気分になれたかも知れぬが、私の場合はなんとも寂しい白夜の経験であった。きっと北欧は1人で行っては行けない所なのかも知れぬ。

サラリーマン諸君よ若い女性達が香水をデイト前に付けているのを見たら「体臭の少ない日本人には安いトワレのほうがお勧めだよ」などと言いながら上記シャネルのお話でもすると貴君の株も上がるかも。最もこの頃の若い男性もトワレを付ける人が増えたとか。おじさん達も負けずに柑橘系で若く迫ってみてはいかがか。

シャネル5番の香水を愛用していたマリリン・モンローが日本に来て記者会見で言った時の有名な逸話でこのエッセイを締めよう。
記者が聞いた 「モンローさん、寝る時はどんなネグリジェを?」 
モンローは言った。 『あらーん、私のネグリジェはシャネルの5番よ』
君の奥方は言った。 『あたいのはチャンネルの5番よ』  何か着て寝ろよーてかー!       

2009年9月21日月曜日

「至高の愛」 “アガペィ”

ギリシャツアーが多いせいか「アガペーの愛」をよく思う。先日知り合いの結婚式でたまたま牧師が「アガペの愛」の事をしゃべりそれに感動させられたせいもある。
 感動の中味とは結婚式ゆえ勿論「愛」についてである。

ギリシャ語には愛という言葉が二つ有るとの事(本当は3つ)。文系の人はご存知だろう「アガペ」と「エロス」である。一口で言うと「アガペ」とは与える愛、「エロス」とは与えられる愛。
 詳しく言うと「アガペ」とは人に愛を与える事によりその中に喜びを、満足を、あるいは元気をもらう行為を言うらしい。 
 人間の行為の中では究極の美徳との事。ギリシャ哲学ではこのギブの愛を「至高の愛」と定義づけたよう。
 もう一つの愛「エロス」であるが、これは貰ったり奪ったりする事により自分が満足する、或いは元気になる行為とのこと。別の言葉で言えばテイクの愛。ギブ&テイク。ギリシャらしく分かり易いではないか。そして同じ愛でも「アガペ」の愛を「エロス」の愛の上に置き彼らの生活基盤としていた様子。
 まさにアガぺこそ人間が生きる上において、最高の徳として崇めていたらしい。 

ここから先は私の自説と言うか独断ゆえ軽く聞き流してもらいたい。
古代ギリシャの多神教の世界では、その多神教ゆえに皆が信心深かったと思いがちだが、見方を変えれば、それだけ神も希薄になり人生を快楽的に過ごしがちになる傾向があった。
 そんな世界ではエロス中心、今なら拝金主義と置き換えてよいが、そんな生活になりやすく人間社会もなにかと摩擦が増える。それを防ぐ為の方便だったのかと推測するが、ギリシャの賢人達が討論(シンポジオン)の果てに生み出したのがこの「アガペ」と言う愛の形ではなかったろうか。
 まさに究極の哲学である。一神教にありがちな狂信を防ぎ、さりとて行き過ぎた人間中心主義をも防いだギリシャ人の英知であろう。そんなバランス感覚の良かったギリシャ人達ゆえ、あれだけの文明を残せたのだと思う。こんな説を解いた教授はいないかも知れぬが、ギリシャ・ローマ文化に傾倒する私の独断と偏見と言って置こう。

その牧師はこんな事も言った。キリストで言う「愛」という言葉を日本で始めて具体的に皆が口にしたのは戦国初期に宣教師が持ち込んで以来との事。勿論キリスト教の「愛」と言えば「アガペ」であるが、日本人はこのアガペに相当するスペイン語やポルトガル語の「愛」という言葉が上手く訳せず、これを当初「一番大切な物」と言って居たそうな。面白い逸話ではないか。

宣教師にとって当時の日本人はとても内気な国民に見えたらしい。愛するとか好きとかの感情表現をストレートに出すのが余り得意な民族ではなかったようだ。
 私など求婚の言葉も憶えがないほど内気なスタイルで我が天使をゲットした事を憶えているが、私などが宣教師しからすれば典型的な日本人に見えたのだろう。

「アガペ」の溢れる嫁の影響で「アガペ」を意識する様にはなったのだが。いざ行動に移るとすぐ「エロス」に行ってしまう。この年になり聖人君主や哲人には遠く及ばずの境地である。

定義からすると人知れずのボランテア行為が「アガペ」であろうか。時々そんなボランティアを行う人種を見ると、我が身を振りかえって恥ずかしくなるが、どうやら死ぬまで「エロス」の愛を追いかけて行きそうである。
 全部が聖人君主ばかりだと、これも肩が張って疲れるので私のような人間もいても良いのではと一人で慰めている。  
「アガペ愛、目指したつもりが、ああエロス」。本日の落ちはいま一つ。

パリのカフェにて






パリを旅するとちょっとした事で驚く事があるが、その中の一つにカフェの横並席が有る。勿論向かい合わせ席も有るが、有名なカフェほど横並びが多い。何時間座っていても追出されないので、のんびりと時を過ごすにはお勧めの場所である。道行く人を眺め、逆に眺められる場所といってよい。

色々な人を眺めるのは結構楽しい物である。オープンカフェでお洒落な女性と2人で、道行く人から眺められれば、舞台上の役者の擬似体験が出きるというもの。つまりお茶を飲む二人は道行く皆に眺められる役者であり、道行く人達を眺め返す観客でもある。
 一種の舞台の役者と観客の関係と言って良いだろうか。なんともヨーロッパ的であり、お洒落ではないだろうか。

軽く食べる時などは、椅子を少し動かすだけで二人の世界が作れるのもうれしい。なんといっても横並びは女性を口説く時にも都合がよい。まっすぐ女性の顔を見なくて済むので照れ屋には口説き易い。無意味に場を繕うためのタバコも要らない。本当に好きだと告げる時だけ目を見れば良いのであって、そんなに長く見つめ合わなくて済むので気が楽だ。
 向かい合せだと会話が途絶えるのに御互い気を使うが、横並びだと何故だか沈黙でも間が持てる。
道行く人を眺めながら、次の会話の作戦が練れる。

なぜか正面で女性の目を見ながら口説くと、私の場合大抵は疲れて失敗した。自身タバコを吸わないので間が取れず持て余すのかも知れぬ。色々繕おうとして、つまりへたな会話でカバーしようとして失敗したのだと思う。黙って見つめるだけで惚れられるタイプでもない男のつらいところであろうか。
 日本にも横並びの喫茶店がたくさん出て来て欲しいのだが。長く座られると回転が悪い故か、スペースの問題か、見たり見られたりが苦手な民族なのか、リサーチの資料でもあれば見たいものである。

パリのシャンゼリーゼでお茶をする機会があったら、凱旋門近くの「カフェ・フーケ」をお薦めする。「仏映画アカデミー賞」の選考会がこの上のレストランの中で行われるという格調高く値段も高いカフェである。
 そう女優バーグマン全盛時代の古い映画「凱旋門」の中に何回も出て来るあの店である。中に入ると壁に掛かる映画スター達の写真を見るだけでも価値があるが、席はやはり外の道路沿いに座り、町行く人を眺めながらのお茶を勧める。
 風月堂もこの店の名前フーケから取ったとガイド達が言う赤いテントで有名なカフェレストランである。

同じパリでも現地人をのんびり眺めるには、サンジェルマン・デ・プレの「カフェ・ドゥ・マーゴ」「カフェ・フロール」の方がお奨め。ただここは同性愛の人が多いので予備知識なくフラリと入らない方が無難かも。この辺のカフェーから実存主義や古くは啓蒙思想などが生まれたと言っても過言ではない所である。
ボルテールやデカルトのような大思想家達も書斎から出て、このカフェで頭を休めたり、道行く人を眺めながら色々と思索したのではなかったろうか。勿論お盛んな先生達ゆえ愛人との逢引に使った事は間違いないと思われるが。  
 現代の有名人ではサルトルやボーボワール、F・サガン、カミュ達の溜り場だった所と言えばお分かりだろうか。 ちょっとインテリ風な気分でお茶をするならここであろう。

日本人もこのようなカフェで道行く人を一日のんびり眺めながら余裕の時間を過ごせるようになれば高邁な定理や思想もたくさん生まれ、ノーベル賞をもらえる先生方も増えること間違いない。
 最後はパリゆえデカルト先生に敬意を払って決めて見たいが。私の様な凡人には次のような定理になってしまう。
『我(一日マドモアゼルを眺め)思う故に(Hな)我有り
今日の落ちは少々難解すぎたか。
この諺が分かるなら貴方のインテリ度はかなり上です。

2009年9月19日土曜日

キャンティワイン


中部イタリア・トスカナ地方を回る旅をした。トスカーナと言うと、食通はキャンティワイン、若い女性はフィレンツェのグッチ、フェラガモなどのファッション・ブランドの本店所在地。教養人であればルネッサンス発祥の地などが浮ぶ。

今日は花より団子、教養より食い気と行こう。特にワイン屋の倅として生まれた私としては忘れられないのがトスカーナのブランドワイン「キャンティ・クラシコ」である。
 普通のキャンティワインといえば幌をかぶった下膨れ姿のセクシーボトルが有名である。その赤ワインのボトルがすぐ浮ぶ人はかなりワイン通であろう。

このキャンティ・クラシコとの出会いは添乗員初期の頃フィレンツェのサバティーニ本店(六本木の支店はまだ在るか?)で出会ったのが最初であった。ブランド好きの日本人には人気の店だったが料理としては味が濃い上にヘビーで私にはいま一つの味と記憶する。しかしワインとだけはぴったり合った事を憶えている。ソムリエに薦められるままに選んだキャンティ・クラシコとの出会いであった。

キャンティクラシコにも色々なブランドが有る事を知ったのもこの時。トスカーナの限られた地域(畑)の指定銘柄という事を知ったのもこの時が始め。つまりクラシコの名は勝手に付けられないという事を知った。
 クラシコと名が付くと、日本の高級レストランでは1万円を越してしまうようだが。
日本で探す時は温度管理のよいところ、つまり夏の暑さに耐える場所に置いてある店をお薦めしたい。
私自身はキャンティから少し南に下がった畑で「ブルネリ・モンタルチーノ」と言うイタリア大統領が公式晩餐会に使うと噂の有るブランドワインをもっぱら土産として担いできたのが常でしたが。

良いワインは良い女性との出会いと似ていると言ったら、かなりキザだろうか。格調高い女性というのは高いワインと一緒で出会いの時、冷や汗を掻く事が多い。高いので美味いだろうと思って飲むと意外とそうでも無かったり、反対に安い地酒が予想外においしかったりする事もある。ワインの面白さもそこにあるのだが。
 カラフ入りの名も無い地酒ワインでも、なんとも味があって妙に忘れられなくなり何回もそのレストランに通ってしまう事もある。本当に女性とワインはよく似ている。

私など一番安い地酒が妙に忘れられなくなり、今の女房になってしまったのだが、管理が悪かったせいか(ろくな給料を与えなかった)、蓋を開けっぱなしにしてしまったのか(留守にしすぎた)、酢になりかけております。そろそろ他銘柄の新しいワインでも開けたい所ですが。

もしイタリアに行ったら、奥方のブランドショッピングに付き合うのも良いでしょうが、年代物【ビンテージ】のワインを1本探す事もお忘れなく。ついでにワイン用のつまみとして生ハムか生チーズでも買ってきて一緒に飲めば至福の境地。これぞイタリア旅行の楽しき思い出の一つになる事請け合いであろう。
勿論格調高いワインは飲む1時間くらい前にバカラ風のビンに開け、空気をたっぷりあて、香りを十分に出し、まろやかにして飲むなどの工夫が欲しい。
くれぐれもホストクラブの若者の様な一気飲みは辞めて欲しい。        
『我が女房 色艶だけは ビンテージ』 お後がよろしいようで

2009年9月18日金曜日

ハプスブルグ王家とウィーン







始めてウィーンに行く日本人はその都市の美しさにまず皆驚く。格調高い王宮と公園のバランス、おしゃれな茶店とコーヒ&ケーキの美味しさ、ドイツ語圏とは思えない品のある料理、人々の優雅な身のこなし、など音楽以外でも旅人の心をくすぐる町なのです。
 同じドイツ語圏でも遅れて歴史に登場して来たベルリンには真似ができない所でしょう。

歴史的な町並みを歩き、充実した美術館を見た後ワインでも傾けながら名曲を聞けば《これどウイーン》だとみな酔ってしまう。
 中世の貴族服を着た音楽家(写真参照)とウエイターにかしずかれる音楽レストランがあるが日本人はこんな雰囲気に弱く、皆で舞い上がる。観光客が喜びそうなワルツやコンサートは毎晩。オペラだ、バレーだ、オペレッタだのと手を変え品を変え観光客から外貨を稼いでいる。
 それだけの物を残したオーストリーハンガリー帝国のハプスブルク王家ってどんなん?とよく添乗員に質問されるので、その辺を今日は少し。
 
ここの王家は王の中のチャンピオンの称号である皇帝の位を持っていたせいか「栄光のハプスブルク王家」と呼ばれ、数ある欧州王家の中では最高の名家でした。
 こちらでよく耳にする有名人としてはカルロス5世(マドリッドやウイーンの両美術館で馴染み=あごの長いのがこの王家の特徴ゆえすぐ分かる)、18世紀のマリア・テレジア女帝というよりはベルバラで有名なマリー・アントワネットの母、明治天皇と同時代で最後の皇帝フランツ・ヨーゼフとその奥方でヨーロッパじゅうに美人で名を轟かせたエリザベート(シシー写真参照)あたりであろうか。

そもそもハプス(鷹)ブルグ王家と言うのは北スイスの小さな領土から出発し13世紀ひょんな事から王の中のチャンピオンである皇帝の位を手に入れてから大きくなり始める。主に結婚政策で大きくなったと言うが、ちゃんと戦争もやる時はやった。
 スイスの本拠地はウィリアム・テル達の百姓軍に押されたせいか、勢力範囲は北東へと延びて行き13世紀には既にウィーンに本拠地を置いている。
 西欧から見るとウィーンは東に寄りすぎている様に見えるが東欧、北イタリア、バルカン諸国等がハプスブルク王家の主なる領土だったと分かると納得できる。
 全盛期には神聖ローマ帝国という名前でドイツ、オーストリア、オランダ、ベルギー、スペイン、ポルトガル、東欧、バルカン半島、など欧州のほとんど、また新大陸まで領地を持っていた。
 勿論どんどん独立されてしまうが第一次大戦までは東欧、バルカン半島の半分をがっちり押さえていた。映画サウンドオブミュージックのトラップ大佐は確か元オーストリーハンガリー帝国の海軍大佐だったはず。北イタリアの海に面する領土を王家が持っていた事がこれだけでも分かる。

16世紀に大ハプスブルグ王家はスペインとウイーンの2家に分かれて行くが、両王家は結婚で絆を深める。ウィーンに残るスペイン乗馬学校という名前がマドリッドとウイーンの繋がりを今に忍ばせる。
 しかし両王家は近親結婚が過ぎたのか、スペイン側ハプスブルグ王家は17世紀に途絶える。ウイーン側は何とか残ったが、近親結婚の弊害は隠しようもなく、新興プロシアにジワジワと領土を侵されて行く。貿易で栄えていたドル箱オランダ、ベルギーは独立へと歴史の歯車は徐々に没落に向い、オーストリア側も一次大戦でプロシアと共に崩壊する。

まあ頭の痛くなる歴史はその位にして、有名なモーツアルトやベートベンなどの音楽家達や、クリムト、エゴンシューレ等の画家が、あのフロイトが、建築家オットーワーグナーが、その他諸々の文化人がウィーンで活躍した理由が、これで少しは納得していただけたろうか。現代では「トラさん」の唯一海外ロケがここで行われた。
 ウィーンは中世パリやロンドンに勝るとも劣らぬ首都中の首都だった。それゆえ数ある有名人もウィーンに集まって来たのである。過去の栄光だけで食える国ってうらやましい。もしかしたらこれが今日一番言いたかった事かも知れぬ。

奥様を連れていつかウィーンを旅したら上記の話を思い出して欲しい。行く前に「第3の男」の映画を見てから行くとウィーンが身近に成ります事請け合い。オーソン・ウェルズとジョセフ・コットンの演技も渋いが映画の中に戦後の荒廃したウィーンがたくさん出て来て楽しい。映画としても傑作。 主題は『ワルだったけど、死んでもアノ人は私の男よ。それが女心というものよ』てかー?
 いつの世でも女心は難しいものですな。最後のシーンが音楽とあいまって感動的。自分(ジョセフ・コットン)に気があると思っていた女が自分の前をわき目も振らず去って行くシーンは印象的でした。

ジョセフ・コットンが振られるこのシーンを吉本風に笑いとばそう。
俳優は「サンマ」と「大竹しのぶ」あたりがお似合いか? でもこの落ち分かるかな?
『あんなワル死んでもうた。はよう忘れて わてとやりなおそ。なあーしのぶ~。なあてば~しのぶ~』
PS:宮殿の写真は夏の宮殿=シューンブルン宮殿

2009年9月17日木曜日

カサブランカと EU と クーゼンホフ・カレルギー



カサブランカに行って「みつこ」という女性を思い出した。昔NHKで吉永小百合さんが主演した明治の女性ドラマである。ドラマの内容とは「みつこ」さんを通してオーストリア・ハンガリー帝国貴族の崩壊して行く姿と、夫の早逝後の「みつこ」の波乱の一生を描いたものである。
 
時は明治、青山の骨董家の娘に生まれた「みつこ」は日本文化に傾倒していた当時のオーストリ・ハンガリー帝国の駐日大使カレルギー公爵と知り合い正式に結婚し、彼の領地チェコのボヘミアで2人は暮した。
 当時3等国であった日本女性が欧州の政府高官と知り合えば駐在時の慰め物として、それなりの手当と引き換えに帰国時に捨てられるのが常だった時代、正式の結婚どころか現地の社交界でも活躍したとの事。 彼女の素晴らしさが推測出来よう。仏ゲラン社の香水「ミツコ」のネーミングになったほど有名な女性といえば魅力も推測できようか。

彼女の次男がこのエッセイの主人公、誰あろうクーゼンホフ・カレルギー公爵その人である。驚くかもしれぬが彼が最初にEUの概念を提唱した人である。『小さな国は戦争のたびに侵略される。同じヨーロッパ人同士が戦争しないで仲良く出来ないものか。ならば欧州が一つの国になったら良いのでは。』という汎ヨーロッパ思想を提唱する。
 彼の説はかなりの賛同者を得たが、時代はナチス・ヒットラーのゲルマン至上主義の時代。彼のような自由思想はヒットラーにとっては都合の悪いものであり、結局弾圧され逃げまくる事になる。彼は年上の女優と結婚していたが、2人してモロッコのカサブランカまで逃げてきた。この話をハリウッドが映画にしたのがH・ボガード(ボギー)とE・バーグマンでお馴染の『カサブランカ』である。これから先は女性達とお茶する時の会話ツール。

映画の主題は男ボガードの優しさであろうか。ボギーはある日、自分の経営するカサブランカのカジノクラブ兼酒場に逃げてきた昔の恋人バーグマンに再会する。彼女は夫とアメリカに逃げようとしてカサブランカまで逃げて来た。そこで再会した2人は揺れる。しかし彼女には夫がいた。
 しかもその男はあまりにも立派な男。ボギーはジェラシーも手伝い、2人の脱出を最初は邪魔をする。ボギーは当然のごとく女に迫る。女も縁りを戻そうとする。しかしボギーは冷静になって自分と連れの男を比べる。そしてこの瀬戸際でボギーは本当の男の優しさを出す。  
 「俺みたいなヤクザな男と暮すより、この女の本当の幸せは?」。そこでボガードは熱くなっている女に冷たく言い放つ。「お前はあの男と行きな」。女は目で言う「なぜ?」ボガードも目で。「俺みたいな男よりお前にはあの男の方がふさわしい」。ここがこの映画の見せ場。ボガードは寂しさを体全体で表わしながら彼女を飛行場で見送る。なんとも良い映画でした。
 少し私の脚色が入っていますが大筋はこんな所でしたか。

さてバーグマンと一緒にモロッコに逃げて来てドラマを作って去って行った地味な男こそ主人公カレルギー氏のモデルとなった男です。尤も悪役ボガードが主役だったので映画の中ではカレルギー役の俳優は影が薄かったが。
カサブランカに行くと映画の中でボガードが居たと言うモデルのバーが有るが、撮影は全てハリウッドとの事。
 
現地に行くと映画の中の埃っぽい感じは全くない。近くに砂漠はない事に皆驚く。砂漠はずっと南の果てまで行かないと出てこない。アトラス山脈を越えてから、しばらくしてやっと砂漠は出てくる。
 そうです、この国は海水浴が出来る、スキーが出来る、砂漠も有る、おまけにアラーの神が居るというとても面白い国なのです。 フェズやマラケシュ辺りに行くと気が狂うほど強烈な印象を受ける。本当の旅好きはこんな国がお奨めかもしれぬ。

話を戻すが、何かの拍子に女性達とEUの話でも出たら、ここで「みつこ」さんの話をしてさりげなく貴君の教養を見せてはいかがか! 深夜のTVなどで「カサブランカ」をやっていたらチャンス。彼女にビデオを薦め、知的サイドから彼女に迫るというのは如何なものだろうか。

悪役が似合うボギーだったら、次の様に渋く言うかな。
『男と女の事?ごちゃごちゃ言うんじゃないぜーベイビ』
「そこでボギー、女を荒々しく抱きよせる」 カット。  今日の撮影これまで。

プラハの春



                   プラハの春
中欧の旅が増えてきている。チェコ・オーストリア・ハンガリー・を巡るのが通常だが、キャッチコピーを一言でまとめれば次のコピーであろうか!!
『チェコのプラハが醸す古さと情緒・オーストリアのウイーンが誇る音楽とハプスブルク王家の華やかさ・ハンガリーのブダペストの夜景とジプシー音楽。』音楽好きや歴史好きにはたまらない。ここが増えているのも分かるような気がする。
今回はチェコのプラハを見てみよう。
ユネスコの文化遺産の中でも町そのものが文化遺産の指定を受けている町はフローレンスを始めヨーロッパには数多くあるが、多くの中世映画の撮影にプラハが良く使われていることを見てもこの町の特殊性が良く分かろうというもの。映画好きでなくてもモーツアルトを描いた「アマデウス」あたりはご存知であろう。
 この監督がチェコ出身のハリウッド監督ということを差し引いてもあの映画のほとんどがこの町の旧市街を使って撮られた。この町がそれほど中世のまま残されている証拠である。
 古い町ということではイタリアの諸都市を除けば北ヨーロッパではここが筆頭であろうか。それゆえ「古さと情緒」というコピーがご理解いただけたであろう。現代映画でもT-クルーズの「ミッションインポシブル1」でカレル橋の周りが印象的に出ているので次にTVで見るときは注意して見て欲しい。

今年はベルリンの壁が崩れて20年記念ということで68年と89年のチェコの民主化の舞台としてよくTVに出ていたバーツラフ広場という所を紹介したい。プラハの春の舞台である。
 歴史を知らない人の為に少しレクチャーするが、この広場は68年ドプチェクたち共産党首脳部の民主化宣言に驚喜したプラハ市民をソビエトの戦車が潰した場所であり、89年はベルリンの壁の崩れに伴い、再びドプチェクや初代大統領ハベル・体操の名花チャスラバスカ選手達がこの広場に集まって来た市民に自由化を宣言したところである。特に89年の革命は一人の血も流さなかったのでビロード革命と言われ世界中の文化人達に賞賛された。
 
広場といっても何十万もの人たちが集まれるほどの大きな通りである。旧市街の中心から10分程の所ゆえ、プラハ観光の自由時間には是非足を伸ばして欲しい所である。近くにミーシャの美術館もあるので見終わったら足を伸ばすのも一興であろう。

この広場の端・国立歴史博物館の重々しい建物の近くに胸を打つ記念碑があるので探して欲しい。それは68年の民主化弾圧に抗議して死んだ2人の若者のお墓である。ソビエトの戦車に潰されたのを悲観した2人の青年がソビエトに抗議して焼身自殺したのを記念したお墓である。2人のヤンという名の20歳前後の若者の名前がプレートとして貼ってある。

この2人の死の意味を忘れまいというチェコ人の決意がこの墓に表れている。秘密警察でがんじがらめになっていた国家をじかに見た私にとっては共産主義国家が滅びるのは絶対にありえないだろうと思っていたのでこの若者2人の気持ちが痛いほど分かるのである。

 気になっていることがあったので、この墓の近くを通りかけた2人の若い警官に聞いてみた。「89年の自由化宣言の時にドプチェク達などの自由化の旗手たちが集まって来た民衆に手を振ったテラスはどのビルだ」と聞いたら、「うん、その名(ドプチェク)は聞いたことがある。でもどのビルだか分からない。」仕方なくその辺を通る年寄りに聞いてみたが、皆英語は分からず足早に去ってしまったので、どのビルかは分からずじまいであった。
共産主義独裁が壊れるという事は確かに大事件ではあったが、私にとっては暗闇の中で驚喜した民衆に手を振っていた自由化の旗手達のあの笑顔がいつまでも忘れられない。

「自由化の旗手達よ、名前も過去になりにけり」か。自分が歳をとったのを感じた2009年の秋でした。

2009年9月16日水曜日

ドイツの小麦ビールとロマン王




ドイツを旅するとビールの銘柄の多さに驚く。大手ではHB社とライオンマークのルーベンブロイ社が有名か。
ミュンヘン周辺だけでも300社は有ると言う。日本酒の地酒屋感覚である。 私自身の好みで言えばワインが先に来るが、やはり運動後に飲んだ時の爽快感を思うと生ビールを発明した人は本当にノーベル賞ものとはうなずける。
 本来アルコールが強くない私にとってのビールとは運動後の最初の一杯がすべてという感じの飲み物だが、こんな私でもいつも食事の時にドイツで飲むビールが有った。白ビールの一種である、「バイツェン・ビール」と言う小麦で作ったビールである。長いブーツ風グラスにレモン・スライスを入れて飲むのが一般的な飲み方である。

このビールの特長は苦くなく、水代わりにがぶがぶ飲めることだろうか。水では物足りないが、さりとて軽いアルコールが欲しいという人にはお勧めのビールだ。 初期の頃レストランで水を頼んだ時ビールと同じくらいの値段を取られたのが悔しくて、それならビールをと頼んだのが始めだったと思う。もっともドイツの塩辛い食事にはどうしても塩気を中和する軽いアルコールが欲しくなるのだが。

特にバイエルン州フュッセンの白鳥城(写真参照)の麓で飲む「バイツェンビール」はまさにノーベル賞物と言って良いかも知れぬ。不思議とバイエルン州以外では、何処のレストランでもすぐ見つけられるビールではない。
ただ本当の酒飲みの感想によれば気の抜けたビールの様な味で美味くないとの事。気の抜けたビールとは言え、アルコール度は5%もあるので、全くのアルコール嫌いには、さすがにお勧めできない。繰り返すが付き合いで一口だけという人にお勧めのビールと言う事をお忘れなく。
 日本で強いて近い味を探すと言えばスーパーで時々見かける「銀河高原ビール」(?)とかいう名前のビールが比較的近いかもしれぬ。お試しあれ。

ドイツのビールと言えばすぐミュンヘンのオクトーバフェスト(10月祭り)が有名。10月には100万都市のミュンヘンに数倍の観光客が来るとの事。昼は名城ツアー、夜は市内会場に作られた大手ビール会社のテント内のショウーを見る。そのショーたるやアルプス周辺に昔から伝わる農民達の素朴な踊りやヨーデルが中心だが、見るというよりは祭りの雰囲気に酔うと言う方が正しい。
 祭りの出店を冷やかしたり、普段内気なドイツ人の陽気に騒ぐ変貌振りを見たりと、この祭りの喧騒・興奮に浸るのは一見の価値がある。祭りの帰りに寄り道してミュンヘンで一番大きなビアホールHB へも足を運んで見よう。ヒットラーによるナチス党の旗揚げがあったという王宮付属の醸造所である。
寄り道しても損はない。

かっちりしたイメージのドイツの中でバイエルンという州、ビールはもちろんだがロマンチィク街道、
アルプスの景色、歴史、城や教会などが味わい深く、文化の香り高いドイツNo1観光州で有る。
 中でもディズニー映画のモデルとなったルードウッヒ2世(写真参照)の作った城と彼の悲劇がどうやら女性達の心を騒がせる様だ。この狂気のロマン王の事はここでは省くが、彼の作った3つの城を見れば誰でも
ファンになるであろう。まさに日本人好みの州“バイエルン”である。

その辺の詳細をもっと知りたい人はルキノ・ビスコンティ監督「ルードウイッヒ2世神々の黄昏」の映画をお勧めする。映画ではホモの人の繊細さが充分に描き切れてなかったように思われるが、ビスコンティ世界特有の凝ったセットや歴史実話として見れば充分に楽しい。
 ミュンヘンを本拠にしてバイエルンを支配したビッテルスバッハ王家の滅亡して行く様が良く描けていると思う。森鴎外は留学先のドイツでルードウイッヒ王の謎の死に出会いその事を小説に書いている。

史実によると王はホモであったとの事。「ホモの監督がホモの人を使ってホモの一生を描いた映画」という事で少し分かりづらい部分もあったが重厚且つ格調高い映画である。
 こんな事を言うとせっかく見ようとした人を怖気させてしまうかと心配するが、見て損はない一押しの映画である。いや絶対見るべき映画であろう。
 后妃エリザベート役がいい。彼女の美しさは伝説になっているが、ロミーシュナイダーが良く演じていた。彼女の優雅さや美しさを見るだけでも価値がある。  
今日の主題はやはりビスコンティと淀川さんに敬意を表して
ビールで「乾杯」そして 「サヨナラ ~ ~」 若い人にはこの落ちは分かるまい。

2009年9月15日火曜日

コーヒ夜話

漢の時代、中央アジアにいた匈奴の末裔と言われるオスマントルコ族が遊牧をしながらトルコ半島にまで到達したのは13世紀の事。 
 当時その地にあった東ローマ帝国の首都コンスタンチノープル(今トルコのイスタンブール)を滅ぼし、この西欧と東洋のつなぎの地にあったコンスタンチノープル(古名=ビザンチン)からイスタンブールと名前を変え、改めて首都を置いたのは1453年。 それから100年と少しでイスラムの半月旗がバルカンからハンガリーを席巻し、当時の神聖ローマ帝国の首都ウイーンにまで攻め上って来た。
 
ウイーン包囲戦は二回あるが、その時に囲まれたウイーン側の人達が今日の主題であるコーヒを始めて知り、西欧にもたらしたというエピソードが今日のお話。 その攻囲戦とコーヒの逸話を紹介する。
1:トルコに囲まれたウイーンの皇帝が既にコーヒ豆の事を知っており、援軍を呼びに行くメンバーに、それが成功したらトルコ軍の持っているコーヒ豆の独占販売権を与えると約束し、成功したとの説。

2:援軍を呼びに行く人を募った所、トルコ人とのハーフがコーヒー豆の事を知っており、その男が「成功した暁にはコーヒ豆の独占販売権を貰う」との確約を取ったとの説。
 その男はトルコ語が分かったゆえ、上手く囲みを突破し援軍を呼べたとの事。

3:援軍が来て囲みが解け、逆に逃げるトルコ軍を西欧側が追うと、黒いコーヒ豆が一杯残っていた。
『この良い匂いは何だ。コーヒと言う飲み物らしい。どうしましょう皇帝様。』『それでは今回の戦いで一番勲功が有った者達にこの豆をやろう』この説がエッセイ的には一番面白いが。実際のところ3つの説のミックスであろう。
 
以上な様な経緯でコーヒは西欧に入ったとウイーンの人達は言うが、実はイタリアのベニスの商人経由の方が早かったと思われる。その根拠として8世紀から彼らは交易相手としてトルコは勿論エジプトなどアフリカまで貿易販路を広げていたので、このコーヒーを知らないはずはなく、交易品の中に必ず入っていたろうという説である。
 という事でオーストリアの人には悪いがベニス経由の方が時間的には早かったという説を取りたい。
何はともあれ二つのルートで西欧人はコーヒを手に入れたが、ネスカフェのCMで知らされた通り、エチオピア原産のコーヒ豆がアラブ、トルコ経由で入って来て一般的になって行ったことは間違いがないようである。

ベニスとコーヒと言えばカフェが立ち並ぶサンマルコ広場は必見。すぐ目に入ってくるのは小オーケストラ付きのカフェ・クワドリ。映画「旅情」の中で主人公の出会いに使われた、カフェ・フローリアン。ここは欧州最古のカフェ店でもある。そのカフェが今でもそのまま営業しているのもすばらしいが、この辺で西欧人が始めてコーヒを口にしたという話はロマンがあって面白い。
 お茶をする時はゴシップ話が付き物。その2つのカフェのうち「クワドリ」のゴシップは面白い。そのオーナ貴族と若い日本人ハープ女性奏者との恋愛と結婚話である。その金持ちの老人の死後、遺産相続で遺族と彼女が揉めたとの事。後日談によると、その日本人は遺産を世界中に気前よく寄付しているとの事。日本女性の鏡の様な人である。

話はそれるが人工に築いた島、ベニスという所、イタリアではローマ・フィレンツェに並ぶ3代名所の一つである。 しかし現代のハイテクをしても沈んで行くベニスは如何ともしがたく、いつかは海の下に沈む運命のようである。
 沈む前にそのカフェで音楽でも聞きながらコーヒを楽しんでもらいたいのだが、行けない人はここを舞台の映画を思い出しながらのコーヒは如何か。そんな事を思って飲むと「たかがコーヒ、されどコーヒ」になること請け合いである。

話は戻るが、ウイーンへ行ったら必ず皆ウインナコーヒを飲む。ただウインナコーヒと頼んだのでは生クリーム入りのコーヒはいつまで経っても出て来ない。そんな名前のコーヒはない。そんな時はカフェ・アインスュペンナーと言ってください。ついでにウイーンらしく「ザッハートルテ」などのケーキを添えるとお洒落かも。
 田舎育ちの私にとってかなりの年までウインナコーヒとはモーニングサービスとやらで小さいウインナソーセージがパンと一緒にコーヒの横に付いている物とばかり思っていた大変な田舎者でした。
         『あのーこのコーヒ、ウインナソーセージが付いていませんが?』
 こんな話で彼女とのティータイム、一時間持ちます?

2009年9月14日月曜日

ベニスのカーニバルを見て

ニースとベニスのカーニバルツアーに行く。カーニバルといえば日本人にはリオのカーニバルがすぐ思い浮ぶが、この祭りは欧州の方が老舗である。 リオの裸に近い男女の踊りながらのパレードの印象が強すぎるが、花の町ニースは花を投げあう花合戦パレード。ベニスの方は顔まで隠す仮装パレードが有名である。
 ニースもベニスも欧州らしい華やかさや祭り特有の高揚感、地元ならではの工夫があり楽しい。そもそも人はカーニバルが宗教的行事といえば驚くかも知れない。リオの裸に近い踊りが宗教的とは少し縁遠いが、暑いリオであの形になったのは場所柄であろう。

カーニバルとは4月に来る復活祭というキリスト教の宗教行事に関連した前夜祭と思ってよい。
復活祭とは字のごとくキリストが死んで復活する事を祝う祭り。彼の死んだ4月からさかのぼり40日前から彼の受難を忍んで行いを慎み、食事も肉なしの質素な物にしようという、主にカトリック教徒の禁欲行事という祭りで、復活祭につながる一連の宗教行事である。
 それゆえ禁欲が始まる前の1週間は飲んで食べて歌って陽気にやろうという趣旨の祭りがカーニバルだ。カーニバルの語源カルネとはラテン語で肉の事であり、バルとは行くとか絶つという意味ではなかったか。まさに禁欲前に思い切り肉を食べ飲み騒ぐのである。

キリスト教徒にとりイエスの死と復活は一番の関心事である。それゆえ復活祭に至るまでの祭りも派手になろうというものである。祭りの高揚感はどこでも似ているが、祭りに共通している事と言えばなんといっても無礼講であろう。それゆえ未婚の若者達にとっては正にハレ舞台であるし、既婚の者にとっても何かしら心騒ぐハレなイベントである。

一番派手そうに見えるベニスの仮面や衣装を見てみよう。貸衣装代がものすごく高い事には驚いたが、高いだけあり仮面と衣装は奇抜で派手でギョッとさせられる。しかしパレードが意外とおとなしい事に気付くだろうか。表側では見えない裏側のパーティ会場がメイン会場だからである。表側しか見えない観光客には地味な祭りに写るかも知れない。こんなからくりは、やはりベニスという国の歴史を見れば分かる。

ベニスのように貿易に国の生命線を頼っていた所では一緒に祭りを祝うはずの夫が船に乗っていて何年も帰らない事は珍しい事ではない。そんな特殊な場所では貞淑な貴婦人でも、また愛人予備軍も一年に一度くらい仮面や衣装で自分を隠し表に出て狂いたかったのかも知れぬ。
 今と違い貞操がうるさく宗教の力の強かった中世ならば恋も命がけである。そんな時代に祭りの仮面は格好の隠れ蓑の役割を果したのかも知れぬ。

ベニスのような狭い場所では人目もうるさい。そんな所では自分を隠し大いに発散するイベントが年に一度位必要だったのではと推測する。変な噂も浮名も喧騒の中でかき消される。
 船乗りの殿方達も自分があちらこちらの女性と浮名を流すのに、妻だけ縛る不合理さを感じたかも知れぬし、また自分自身、若き日に留守亭主の目を盗み年上の貴婦人と浮名を流した贖罪か?
 それゆえ妻達に1年に1度位大きく発散出きる場所と時間を与えたと思うのはうがちすぎだろうか。こんなことをいうと中世のベニスの女性や男性が全て浮気者のような印象を受けられては困るのだが。

ベニスの仮面や衣装が派手になったのはベニスが全盛期を過ぎた頃からと聞く。通常どこでも文化芸術が全盛になるのは国の絶頂期を過ぎた後、貯めた金を内向きに使い出してからである。
 そう言えばオペラもベニスから始まったというし、ツィチアン、チントレット、ベロネーゼなどの絵の巨匠、テレマン、ビバルディ以下のバロック音楽の巨匠達も17世紀、ベニスの全盛期を過ぎたバロック時代からではなかったか。

中世のベニスに思いが浮かんでふと日本の事を思った。どうやら日本も全盛期を過ぎたと言われ始めているが、ならば金を貯めるだけでなく何か世界に名を残すような芸術家達が出てくれないものであろうか。
それともまだ日本は延び盛りの国なのだろうかと祭りの喧騒の中で考えた。
 「全盛期 過ぎてもせめて 平行に」    日本経済の健闘を祈るのみである。

2009年9月13日日曜日

コロッセオで殺して 1






今日は2千年前のローマ遺跡コロッセオについて。欧州には数々のローマ遺跡があるが、ギリシャ・ローマ文化が残した遺跡でこれほど2千年前が生き生きと目の前に浮かび上がる遺跡はここを置いて他にあるまい。
 映画グラディエータでお馴染みの人間同士が、或いは人間と猛獣がこの中で戦った例の舞台である。 現代スタジアムの起源もギリシャ・ローマの闘技場から出ていることは皆知っていても、もともと祭りの時に神を祝う為の舞台であった事は意外と知らない

競技場と言えばオリンピアの地で行われた古代五輪は余りにも有名だが、ギリシャでもスポーツ競技は神々を祭るイベントの一部だったという。ギリシャ・オリンピアのメイン会場は長方形の遺跡として今に残るがローマの楕円形の競技場とは形が違う。
 運動競技も直接戦争に結びつく槍投、円盤投、短距離走などが主流であった。距離を必要としないレスリング・ボクシングや祭りに不可欠の演劇などの小型舞台は別の場所に半円型の遺跡として今も残る。
一方ローマの円形闘技場は将軍達の凱旋記念や、ローマの神々に捧げる祝日用のイベントとして剣闘士などの戦いに使われ、古代ギリシャ五輪や現在五輪とは少々趣きを異にしていた。少しローマの円形闘技場の事を述べよう。

現代五輪スタジアムのモデルとなったローマの円形闘技場コロッセオであるが。収容人数5万人の規模であり、円形の為か音響が良く、熱い日差しをさえぎるテントまで上空に付けられているなど随分ハイテクナな闘技場であり、規模の点ではカプアに次いで大きく、破壊度を免れている点でも現存する円形闘技場跡の中での代表的な遺跡と言ってよいであろう。
 また5万の観客の出入りが10分ほどで出来た機能的な所など現代技術に勝るとも劣らない。5万という数は人間の興奮の度合いが視覚、聴覚とも拡散されない大きさの限界なのか?建造美に於いてはもしかして現代より上かも。

 このコロッセオはネロ帝死後、別な皇帝一族によりネロ帝の敷地跡に建てられた。パンとサーカスのサーカス部分として滅ぼされたユダヤ人奴隷を使い、機械もない時代に8年足らずで作り上げた闘技場である。建物が巨大だからではなく巨大(コロッセオ)なネロ帝の黄金像が側に立っていたのでこの名が付いた。
 今では競技場の事と思われているアリーナと言う言葉もこの闘技場から来ている。古代闘技場の床の上に敷き詰めた真っ白い砂の事と知っておいてもらおう。高らかなファンファーレと共に、床の下から手こぎのエレベータで上がってくる猛獣、東西から役者気分で登場する剣闘士同士の殺し合い。
 その興奮度たるやアリーナという砂の白さと血の赤の対比も有るが、プロレスやボクシングの比ではあるまい。正に娯楽の頂点ではなかったかと推測する。
 野獣同士、人間と野獣、人間同士の殺し合い、それらは古代ローマの映画「グラディエーター」にゆずろう。ただ時代も経つと剣闘士の成り手も自由市民からの希望者が1/3も居たところを見ると、今の花形スポーツ選手に似ているか。また何回も勝ち進んだ、すなわち生き残った奴隷の中には皇帝や貴族に買われ自由市民にもなった幸運者もいた。

ただ残念と言うか当たり前と言うか、武張った事が好きだったローマ人もキリスト教の普及と共に優しくなり、血を見る競技は廃れて行った。476年ゲルマン民族の侵入によりローマが滅んで100年ほどすると殺し合いの競技はなくなり、古代ローマ遺跡は新たにヨーロッパを支配したキリスト教の教会を作る建築用資材の石切場になり、現代の形にまで崩れてしまった。
 その中でも巨大なコロセウムは一番の被害に会った模様。だから今我々の目前にあるそれは古代の1/3の大きさである。ちなみにローマ人は「コロッセオが崩れる時はローマが滅びる時」との事。
けだし名言である。

いつか奥方とローマに行ったらその大きさや、建物を支える美しいアーチを見て欲しい、それらは下からドーリア式、イオニア式、コリント式の柱として残っている。その調和美などは必見。目前にすればローマ人の土木技術がいかに進んでいたか、或いは美的センスの良さなどが理解出来よう。
 今では剥されてしまった美しい大理石や建物を飾る数々の彫刻が有ったとの事。現代建築家達にとっても垂涎の的である。ローマに行けば真っ先に見るべき遺跡の一つであろう。

コロッセオを前にして二千年前の古代ローマ人の歓声や息吹、喧騒に思いを馳せるのも旅の楽しさの一つである。 廃墟の中でたたずみ、古代ローマ人の声が聞こえて来たら、貴方はロマンが有る人。
 また遺跡を前にロマンの世界に浸れるような女性が側に居るなら貴方はこの上ない幸せ者だろう。

それとも「こんな所より早くグッチに行きたーい」類いの女性しか側にいない不幸者であろうか?
 時としてこんな女性の方が理屈抜きに楽しい場合もあるのですが。!               
 「グチグチ言うよりグッチに連れてって」 てか!

2009年9月12日土曜日

コロッセオで殺して 2

ローマに残る円形闘技場コロッセオは競技場であった事に間違いはないが、皇帝が民衆に顔見せを行い、その民衆から審判を受ける場所でも有った。良い政治なら喝采、悪ければブーイングの嵐。
 ネロ帝の様に皇帝といえども余り無理なことをすると民衆から自死を迫られたり暗殺された皇帝がなんと多かった事か。
強大の権力を持つローマ皇帝とアメリカの大統領を比較するのはナンセンスであるが、両者の違いは期間の差(皇帝は死ぬまで)位しかないというと言い過ぎであろうか。ローマ皇帝も意外と民の声を無視して政治は行われなかったようである。

ローマの滅びの原因は皇帝の独裁機能が行き過ぎてしまったからではないか。チェック機能がない独裁は組織を中から腐らせる。これはローマの歴史が証明済みである。
 ゲルマン民族に滅ぼされたのが史実だが、ゲルマンという外因は有ったにせよローマは中から滅んだといっても過言ではないだろう。何故ならローマの千年近い歴史はずっと外敵との戦いの連続だったからである。ゲルマン民族とて、かっては何回も押し返し、征服してきたのだから。
 興味がある人は「塩野七生」女史の「ローマ人の物語」がやさしく面白く読めるであろう。一度は読まれる事を薦める。

だから組織を大きくしたかったら、ある程度の独裁を認めるべきである。しかしそれもローマ全盛期やアメリカの大統領制の様にそれをチェックする機能が健全に働くようにしておかなければ反対に滅ぶ。  
 それゆえ権力が集中している組織はチェック機能さえしっかりしていれば、かえって決断が早い分、効率が良い。それゆえ指導者が有能ならば早く大きく強くなれることは間違いない。
これこそ暗殺されたシーザーが目指した所ではなかったろうか。

グローバルな時代では、広い視野と将来を見据えた戦略、その上にスピードが求められる。そのスピードゆえに独裁型つまり皆の先頭に立って引っ張って行く西欧型の騎馬民族型の指導者が望まれるのかも知れぬ。
 従業員の多寡に拘らず経営者と名の付く人は歴史映画や歴史小説を学ぶ意義をこんな所に見出しては如何であろうか。今日は真面目すぎて落ちもなくごめん。
  おっとと。歴史も学ばない経営者のいる会社は潰れてしまいますよ。ご用心

2009年9月11日金曜日

NZのゴルフとキューウィ・ハズバンド



NZの南島クライストチャーチ市に有るハグレー公園内のゴルフ場は相変わらず安い。ホテルの無料自転車で、公園に散歩に行きながらの経験だがクラブを借りても2千円前後。
 むしろボール代とか、ティーなどの付属品がゴルフ代に比べて高い。プレー費が安い分、当然ながら日本のような立派な受付も食堂もない。夕方管理人が帰った後は、“クラブをこの小屋の外に置いておいてくれ”との返事。治安が良かった昔の日本を思いだす。

平日の午前にプレーする人は近所の奥さん、リタイヤした年寄りが2組もいれば良い方。信じられないくらい空いている。それゆえすぐ声を掛けられ仲間に誘われる。それでも昼から少しはプレーする人が出てくる。幾らやっても料金は同じとの事。ビンボ-性ゆえ昼はサンドイッチを食べながら続ける。
 ゴルフ場に隣接している公園内にある他の運動施設の方が人の出が多い。公園に隣接する女子中(高)学校の体育の授業らしき物を見たがラグビーだったのには驚かされた。
女学生がラクビーですよ!そういえばここは最強ラクビーチーム・オールブラックスのある国であった。

昔ここのゴルフ場で一人で来ている老人から一緒にゴルフをやろうと誘われてゴルフの楽しさを初めて知ったのを思いだした。ゴルフはへたでも2人で競争すると、より面白い事を発見。
 それゆえゴルフの出発がマッチプレーというのが素人ながら分かったような気がした。
当時日本のゴルフ場が高かったせいかゴルフなど見向きもしなかったのに、ここNZでは前後を気にせず、その上お金も気にしないゴルフをしてから初めてその面白さを知った。  

ゴルフの後にその老人から夕食に誘われた。家の中まで入り年寄り夫妻と下手な英語でサンドイッチとワインだけで話をした。後で分かった事だが、家に呼ぶという事は大変な歓待との事。

家の中で感じた事を記す。まず綺麗に片付けて有るのが印象的でした。
 無駄な物が無い。質素。本当にNZの男はガイドブック通り働く「主男(しゅふ)」と言う事を発見。
これをキューウィ・ハズバンドという。それについて少々解説しよう。

移民当初、女性が少なかったせいなのか、男は家事をせざるを得なかったとの事。女手の少ない開拓当時、男も家事をせざるを得なかったのでその伝統が残ってしまったのだろう。
 男の子も小さい時から父が家事を手伝うのを見て育つので自然に男が家事を手伝うとの事。それが全然嫌味でなく、当たり前の様に見え違和感無く見えた。
 NZの女性は米国女性の様に不思議とイバって見えない。男に何か頼む時その中に愛を感じたのも私の贔屓目か。

日本の女性達よ日本で売れ残ったらNZにおいで。こんな日本人の女性が~!みたいな人が結構いい男と結婚しているのを沢山見ているのですが。他の外国で掴まった花嫁達より皆が幸せそうに見えたのは私の贔屓目か。確か婦人参政権とか、その手の権利はフィンランドと並んでNZは世界一早い。
とにかく女性が強い国と肌で感じた。

NZの男の事をキューウィ・ハズバンドと呼ぶが、良く言ったものだ。この国の国鳥キューイは卵を生んだ後、卵の世話は自分の亭主に押し付け、すぐ他のオスを探しに出ていってしまうとガイドが笑っていたが。 なんともはや羨ましいメス鳥である。ウーマン・リブが聞いたら泣いて喜びそうな話であろう。

もっとも今の日本の若者達もNZの様に共稼ぎが多いから、男が半分やるのは当たり前のカップルも増えて来た様だが、家事が嫌いな私としては、NZに生まれなかった事を感謝せねば。
 キューウイ鳥のように『旦那と畳は新しい方が良い』などと言われないよう私も気をつける事にしよう。 
 「リブが言う 私も成りたや キューウイ鳥」 てかー 今日は女性にお叱りをうけるだろうな

2009年9月10日木曜日

パルテノン 神殿を前にして


ギリシャに行ったらアテネのパルテノン神殿を真っ先に見て欲しい。誰もが大きさ美しさに感動するが、これほどの遺跡を作れたアテネの富や、大国ペルシャと互角に戦った強さの秘密にも感動して欲しい。 
 強さの秘密はもっぱら貿易で稼ぐ経済力とアテノの民主主義の力を挙げる歴史家が多い。
アテネ市民の自由はペルシャの独裁より強しという事であろうか
 
今見るパルテノン神殿は2500年ほど前マラトンで負けたペルシャ側が復讐戦と称し本格的な大軍で攻めて来た時に壊されたペルシャ戦後再建された物である。
 破壊されたアテネの再建にペリクレスという有名な政治家が出てきて活躍する。中でもパルテノン神殿の再建には他のポリスへの威信のためにも国家プロジェクトとしてアテネは勢力を注ぎ込む。
 それは彼の政治基盤の支持層に職を与えるためにも必要な事業であった。その時の建物が今に残るパルテノン神殿である。
 
このパルテノン神殿はアテネ中心部アクロポリスの丘の上に立つ神殿群の中で一番大きい。中にはアテネの守護神であるアテネ女神の像が祭られており民衆に崇拝されていた。
 この建物を含む神殿群を目の前にして、すぐ感じるのは大きさと破壊の凄さである。破壊は17世紀アテネを占領していたトルコと攻めるベニス側との死闘の結果であるが、ベニス側の打った大砲がトルコ側の火薬庫として使っていたパルテノンに当りこの神殿と丘を大破したのである。
 
最初に目前にした私は他の人と少し違う所に感動した。つまりこれだけの物を作る当時のアテネの社会組織にいたく感動したのだ。つまり建築技術ばかりでなくそれを支える進んだ社会があった事にだ。 
 今に劣らない政治、経済は勿論、進んだ自然科学や哲学などが、あんな昔にあったという事にショックを受けたのだ。ソクラテスやプラトンの少し前、日本の時代ならば縄文時代の終わりの頃である。随分の差があるものだと不思議な感覚にとらわれた。

そんな社会の成熟度を示す物差しに美的センスがあるが、どの位ギリシャ人が美への追求に進んだ目を持っていたかアクロポリスに登れば納得。
 丘を登りきるとパルテノン神殿の大きさと美しさが目の前にドーンと入って来る。斜め正面と横のラインが両方見えて来る神殿へのアプローチは感動的である。
 大きい建物は正面から見ると平面に見え易いという事で、わざと斜め45度の角度をこちらに向けている。この角度こそ美の極致である。斜めから全体を見せるその計算されたアテネ人の英知をこの建物に見る事ができよう。
 柱のエンタシスや稜線のふくらみ、空間の広がりなどは現地で実際見て欲しいのだが、今これだけの感動を与えるのなら、色も付いていたといわれるオリジナルはどんなに感動したか想像出来る。
 本当に女神が神殿内にいてもおかしくはないと当時の人は思ったことであろう。
 
パルテノン奥の至聖所に立っていたという巨大なアテネ女神像だが、神話ではゼウス神の頭から生まれ、戦争や、英知、技術の神として当時の人にゼウス以上の信仰を集めていた女神である。
 首から上は象牙、頭部の兜は純金で覆われ、建物全体より費用的には高くついたと伝わる。この像はローマの衰退と共に無くなってしまったが、女神像の縮小版コピーがアテネの考古学博物館に置いてあるのでご覧あれ。ただ余りにも人形的すぎて神とは程遠いのが残念である。 
 
考古学が好きな人には神殿の壁面を飾っていたレリーフや彫刻群が納まっているロンドン大英博物館のエルギン・マーブルの部屋をぜひ見て欲しい。19世紀初期、当時のトルコ駐在イギリス大使エルギン公爵によってパルテノンから持って行かれた一連の彫刻群である。
 ギリシャの女優で後の文化大臣になったメリナ・メリクールが晩年まで英国に返せと言い続けた事でも有名な作品である。ギリシャの遺跡も大英博物館を見て始めて分かると言う皮肉な結果になっている。

歴史好きには2500年の歴史を眺めてきたアテネ女神を思い描く事が出来よう。アレキサンダーやシーザ等の英雄にかしずかれ、ローマやベニス、トルコ人達の歴史を眺め、現在ギリシャ人の前にたたずんでいる姿である。アクロポリスの麓から聞える異教キリスト教の鐘の音に煩わされながらも力あるオリンポスの神として我々を見守っている姿である。

歴史好きな人にはギリシャ本土の旅を勧めるが、良いガイド、添乗員に恵まれなければ毎日石ころを見に行くツアーになるので無理には奨めない。
 10日ほど有るならやはりアテネと南の島巡りでのんびりと『エーゲ海にそそぐの』の世界に浸るのが無難であろうか。
「ただ何もしないで、しなびたかーちゃんと海辺でじっとして居れればの話ですが」

2009年9月9日水曜日

我が心の故郷ニュージーランド(NZ)とマス



誰しも心の故郷と言える場所をお持ちだと思いますが。私の場合NZがそれです。NZのツアーがあるたびホットして帰って来たものでした。親切、おっとり、白人にしては差別が少ない、羊と牛しか目につかない。自然がきれい。人間の数の何十倍の羊や牛が居る事で、自然の美しさは想像できるでしょう。 
 その他、日本のしょうゆが手に入りやすい、安いロブスターの刺身、1000円前後で出来たゴルフ、温泉や、土ボタルなんて言う珍しい観光スポット、南島の雄大な自然などなど。添乗員をやった者の中にはNZを第二の故郷にしている者が結構多い。

しかし、いつ頃からだろうか豪州、NZツアーに添乗員が付くツアーはほんの一部になってしまった。
 理由は幾つか有るが,永住の日本人が増え添乗員が必要でなくなった事。オージーやNZの若者達が就職に有利という事で高校の第2外国語で日本語を選択する人が増え、日本語を話す現地の白人が増えた事。
 またワーキング・ホリディという働きながら学べるビザ制度のお陰で日本で1年間学んだ彼らが帰国してガイドになるためであろう。

時々日本人よりきれいな日本語をしゃべる若い白人ガイド来て驚かされる事があるが、そんな若者達は殆どワーキング・ホリディ・ビザで日本に来て、1年日本に居た人が多い。
 そこへ持って来て治安も良ければ、わざわざ日本から経費の掛かる添乗員をはずし、現地でまかなうと言うのは自然な流れであろう。

今回本当に久しぶりにNZに行ったが驚かされた事がある。南島のクライストチャーチの町の中心を流れるエイボン川に、溢れるばかり泳いでいたマスが全く見られなくなっていた事であろう。昔は町の中に大きなマスが泳いでいただけなのですが、なぜか私にはそれが新鮮で非常に感動した事を覚えている。

マスの減少の理由はなぜかと考えてみたが、もしかすると何でも食べちゃう中国系移民が増えたせいではないのか、などと彼らには失礼な推測をしたが。
 わがもの顔に闊歩する中国人が増えたのをみて半分は私のジェラシーかと自分の器の小ささを実感。東洋人といえば日本人しか、それもほんの一握りしか目につかなかった昔は良かったなーと川を見つめながら複雑な気持ちになった。また現地の白人達がこのマスの減少の件に付いてあまり騒がない事にも感動し、NZ人の懐の深さを感じた。

ベトナム難民や香港人(香港からの移民は金持ちが多かったとはいえ)を引き受ける包容力は日本人には真似できまい。価値観の違う者と一緒に住もうという試み、これこそが究極のヒュ―マニズムではないだろうか。
 この10年で300万の人口が400万になりNZは経済的には盛んになったが、わたし的にはこのマスの減少をみた時「昔は良かったなー」と昔を思いだして複雑な気持ちになってしまった。

ある中国人のタレントが日本に来て最初にハトの群れを見た時、発した言葉を思い出してしまった。
『わーあのハトうまそうー』 そのタレントの弁護の為に私から一言。
日本人観光客がエジプト名物のハト料理を前にして発する言葉は皆一緒。 
『本当にハトを食べるんですかー?!……いざ食べると…皆一様に言う!美味いー!!』 

ハトのフン公害で悩んでいる自治体の市長さん、ハトを自由にお捕り下さいなんて看板を中国語で立てれば、1週間でハトは居なくなるかも知れませんなー。今日は最後まで中国へのやっかみだったな。

2009年9月8日火曜日

生ハムと酒池肉林




イタリアとスペインを旅すると日本人観光客が必ず美味しいという食物がある。それが生ハムである。ハムと言えば日本では色々な肉を混ぜ合成保存料たっぷりの贈答肉のイメージが強いが、ヨーロッパ、その中でもイタリアとスペインのそれは、肉のあまり好きでない私でさえお勧めの一品だ。日本の生ハムはブタの種類が違うのか?

猪に似たヒズメの黒いブタの足を切り取り、簡単な塩、胡椒だけで味付けをし、吊るして一年位乾燥させて出来上がる。半分乾燥した生肉と言って良いか。シンプルではあるがワインと良く合う珍味だ。
 スライサーで薄く切り、メロンとワインで食べると、それはもうこの世の天国と言って良いほどの美味であろう。

特にお尻の肉のたっぷり付いた後ろ足がおすすめ。左右どちらか忘れたが、どちらかが値段も高く、通の人はそこまで選んで買うと言う。ブタ君は同じ方向に寝るとかで脂肪の乗り具合の関係なのか、左右の足の肉の付き具合が違うらしい。
 イタリアではパルマの生ハムが有名。パルメザンチーズの名でお馴染みのあのパルマ産が高級の代名詞。サッカーの中田が当初セリエAのこの町に所属して居たので有名になった地名である。

スペインでは ハモン・イベリコと言うブランドハムが最高級の代名詞。どちらとも甲乙付けがたい。私は食べていないが、同じ物が中国に有るとの事。商社の友が日本に入れたがっていたのを思い出す。

日本ではうっかり成田へ持ち込むと、成田の動植物検疫で没収させられてしまう。本当は税関員が食べたくてという噂が立つほど美味なのだ。早く規制が取れて安く腹いっぱい食べたいものだが。

食べられるブタ君には可哀相だが、殺されるまで彼らも天国のような生活を送れるのです。スペインで聞いた話だが、彼ら彼女らブタ君達は大きな樫林の中で人間も食べようと思えば食べられるほど美味しい「どんぐり」を好きなだけ食べさせて貰い、寝泊まりする宿舎は一ヵ所。ガイドはこれを男女混浴、酒池肉林と言った。

平均ブタ君の一年を人間の10歳位と計算して、3~4年くらいで出荷されるとすると、これまた想像だが、人間で言えば40歳くらいまで、食べて、歌って大騒ぎ、一日中フリーセックス。こんな生活有って良いの?夢ではないの?と言う感じだろうか?

幾ら殺され食べられる運命に有るとは言え、他のブタ君に比べれば、なんともうらやましい、充実した(?)一生ではありませんか。
こういう生活を我々は酒池肉林と言って、もしかしたら私だけかも知れませんが、世間の道徳をすべて忘れて一度はやって見たいと憧れるのではないでしょうか。衣食住の心配なく、自由に本能のおもむくままに生活したら、どんな感じかと想像するだけでも楽しいではありませんか。

これから何処かで生ハムを食べる機会が有ったら、酒池肉林、~、~と言いながら食べる事にしよう。そうすればより美味しく食べられる事請け合い。
 でもきっと廻りの女性たちが不思議がるだろうな。
     「何をにやにやしながら食べているの」 「いえ その--酒池肉林でして」。
   最後少し品がなくなったことをご勘弁。

2009年9月7日月曜日

一神教と多神教の功罪  パレスチナアラブとイスラエル抗争を見て


アメリカの9・11テロ以来、中東やエジプトの旅が減った。私ごときには早く平和をと祈ること位しか出来ぬが。パレスチナのアラブ人とユダヤ人の領土争いで毎日人が死ぬのを見せられるのは辛い。
 
アラブ側の主張は2千年間住んでいた土地にユダヤ人は入ってくるなと言い、ユダヤ側は2千年前に住んでいた土地だからアラブ側こそ出て行けと譲らない。ユダヤ側は4回の戦争を通してほぼ2千年前の領土を取り返し、それを守るに必死である。逆に取られたアラブ側の憎悪は激しい。
 
ユダヤ側は自衛の為とはいえパレスチナ人を殺し追出しているが、アメリカの援助がユダヤ側に偏りすぎているせいか、パレスチナや隣国アラブの若者にとってアメリカが憎い。
 
ユダヤ人やアメリカ人を一人でも殺せば天国へ行けると信じて、パレスチナではユダヤ人の中へ爆弾をもって、イラクでは理由はどうあれ駐留アメリカ人の中へ爆弾を背負って車で突っ込むアラブの若者が絶えない。
 
TVで映さないがパレスチナを追出された難民部落がヨルダンやシリアにある。その生活は悲惨である。イスラムのお坊さんに聖戦で死ねば天国へ行けると教えられれば、自爆する若者が出て来て不思議ではない環境がそこにある。父母・兄弟の仇にとユダヤ人やアメリカ人を一人でも道連れにしようとするテロの根は深い。

仕事柄キリスト教、イスラム教、及びその2つの元になったユダヤ教に接する機会が多い。それ故いつの頃からか一神教について考える事が多くなった。
 
そもそも人は物心つく頃から自然界に畏れを抱き、多神教的感覚をもつのは自然なのに何ゆえにユダヤ人は一神教だったのかと。
 多神教のギリシャ・ローマでは美しい女性はビーナスの化身とされ、オリンピックで優勝したマッチョな男はヘラクレスに近いとして銅像まで作られ崇められた。多神教の神は形而上的で分かり易い。
 逆にユダヤやイスラムの一神教を見ると、彼らの教会シナゴークやモスクに神の形は何も無い。彼等の神「エホバ」や「アラー」は祈り以外では軽々しく口にする事も、描いたり彫ったりする事も出来ない。 
何故イスラエルのユダヤ人達はエホバ、アラブ人はアラーというただ一つの神を作り、それにアイデンティティを求めたのか。ずっと自問し続けていたが、何回かイスラエルと中東の砂漠ツアーをして少しだがユダヤ教やイスラム教が分かったような気がした。
 
ユダヤ教とイスラム教が生まれた所は過酷の自然状況下で死が隣り合わせという事を肌で感じた。砂漠では水の事以外は考えられず「山の神、海の神」だのと言っていられない。強い神を求めたくなる気持ちが実感できた。
 
欧米や日本の自然は緑も水も豊富で多様である。つまり多神教的、グレイである。砂漠を体験すれば分かるが、昼の暑さと夜の寒さは極端であり、わずかな水以外はすべて砂漠。そんな風土は人間を白か黒かの二者択一にさせる。過酷な自然は極端を生み、極端な一神教の世界は他の神を認めない。  
 真面目な人ほど排他的、狂信的になって行く。ただキリスト教の場合、色々な聖人や守護神を拝むので同じ一神教でも少し肌合が違う。

中東には幾多の民族が起きては滅んだが、しぶとく生き残ったユダヤ人は神から選ばれた民という考えを持つに至る。この選民思想がユダヤ人をして他と同化させず摩擦を生んだ。
 ヒットラーを始め歴史上の為政者のほぼ全部が虐めたと言っても過言では無い。表立って虐めなかった英米二国が天下を取った事はユダヤの金融資本がいかにこの2国に貢献したかを歴史が示す。それ故アラブ・テロ組織も9・11にユダヤ金融の象徴であるニューヨークのWTCビルに飛行機を突っ込ませたのだ。

一神教の泥沼戦争を見て日本の宗教観を思う。年末24日にクリスマス、31日に除夜の鐘で仏教、元旦の宮参りでは神道をと、一週間でまとめて3つの宗教を行う日本人の方が無宗教のようで意外とバランスの取れた人種なのだと。古代ローマの様に「法律は神が作るのではなく人間が作るもの」とした考え方が健全であろう。
 
ギリシャ・ローマや日本のような多神教の、言い換えれば絶対ではない相対と言う概念の中で育った人間の方が物事に偏らず調和が取れた人間の様な気がする。
 しかし意外だが日本人の中でその多神教的中庸文化がすばらしと気づいている人は少ない。それ故日本人のような多神教的な考えの人が調停にはうってつけなのだが。
「アラーとエホバ、仲良くさせたらノーベル賞」 今日は落ちが硬くてごめんなさい。
 この件でノーベル平和賞を貰える日本人が出てほしいものだが。

ローマの軍道とローマ人の解放性


ローマ郊外のカタコンベ観光や、足を伸ばしてナポリ・ポンペイのツアーに行くと、途中2300年以上前にローマ人が作った高速道路を見る事ができる。アッピア街道という名の軍用道路であるが、これこそ「ローマは1日にして成らず」という言葉が実感出来る遺跡の一つであろう。
 
今世界は欧米がリードしているが、その基はこのローマの軍用道路にあるかも知れぬ。たかが道路かもしれぬが意外と奥が深い。その軍道の延びと共に高いギリシャ・ローマ文化が当時の蛮族であった欧州諸国の中に入り、野蛮国が文明化された事を知っておいて損はない。
 ヨーロッパおよびその支店のアメリカが世界史をリードする基が道路によって出来たと言っても過言ではなかろう。

先のアッピア街道はローマ帝国がイタリア半島を統一して行く過程で作って行ったものではあるが、注目して欲しいのはこれが近郊サムニウム人との戦いの真最中、つまり自分達が勝つとも負けるかも分からない戦いの最中にローマ人が作ったという事実である。
 塩野女史の著「ローマ人の物語」の中にローマ元老院の政治の巧みさや先見性などが語られているので詳細は省くが、一つだけローマ人の開放性というところに着目して述べてみたい。
 
西洋史を少しでもかじった者なら次の有名な言葉は知っていよう
   「高い文化を誇ったギリシャが何故に文化の低い田舎者のローマに征服されたか」。
 欧米の政治家たるや必ずローマ史を学ばねばならぬと言われる名言である。本当は日本の政治家にこそローマ史を学んで欲しいところだが。 
 アリストテレスの「アテネ人の国政」を読むと、今の我々が心しなければならない箇所を一つ探す事が出来る。それは「ギリシャ人の閉鎖性」である。アテネやスパルタが既得権益である市民権を自分達のポリスに貢献した外人には与えなかった事だ。
               歴史は我々に教えている
 「ギリシャポリスの城壁は分立、閉鎖をもたらすのに反し、ローマの道路は開放性を物語る」と。

古代ローマの歴史を見ると、ローマの為政者はそれが当然の如く他民族と手をつなぎながら大きくなっている。初期ローマが発展して行く姿で一番旅行者に分かり易いのは、ローマ村と隣のサビナ村の抗争であろうか。
 若い女性が少なかったローマ建国初期の頃、隣のサビナ村の女性を嫁として略奪した伝説である。好んで芸術家達が材題に取り上げるモチーフだ。フィレンツェ政庁前広場にジャン・ボローニアの彫刻として観光客の目を楽しませている。

そのサビナ村の男達が娘達を奪い返そうとして両者が戦争になろうとした。その時ローマ人の妻になっていたサビナ女性が両者を分けて和解を計ったという伝説があるが、こちらの伝説はパリのルーブルにプーサンの絵として画かれている。 この絵はナポレオンの戴冠という有名な絵の傍にある。
 上記2作品は伊、仏に行くと見られるので機会があれば見て置いて損はない作品である。

サビナ村との抗争などはむしろほほえましいエピソードであり、もっと血なまぐさい抗争の歴史がローマの発展途上には一杯あった。シーザーのガリア戦記一つ読んでも負けた側の戦士が奴隷としてローマ軍兵士に与えられたり、売られた事などが生々しく描かれている。
 しかしその奴隷までが開放奴隷として後に市民権を得て行く姿もローマ史で学ぶことが出来る。戦いに敗れた相手を許し、許すばかりでなくローマに有益と思えば科学者ばかりか敵の将軍にまでも市民権を与える度量の広さがローマ人にはあった。

話をローマの軍道に戻す。道路が出来るとローマの駐屯地が出来る。その結果として治安が良くなる。治安が良くなれば道路を使って物資が動く。それまで貧しかった土地も特産品を動かす事により昔より豊かになる。またローマ法で国家を運営したゆえ異民族にとってもローマの下にいた方が公正で安心でき、税金も10分のⅠ税だけとなると前の支配者より搾取も少ない。
 皆こぞってローマの下に付きたくなるのも解る。それゆえ北はスコットランド、南はモロッコやアルジェリア、リビア、エジプト、中近東、南ロシアまで版図を広げられたのであろう。

古代ローマから現代日本に目を向けてみれば日本は郵政や年金で揉めている。その年金も少子化が進むと破綻するかもとの事。日本の市民権をもっと外人に与えやすくするか、少子化でも純潔日本人で行くのかどうか、ローマの開放性と比較しながら識者と議論したいものだ。
    「アッピア街道 作ったローマはアッパレー」 てか
                         詰まらない落ちで失礼しました。


PS:写真は現在のアッピア街道

2009年9月6日日曜日

南仏のヌードィスト・クラブ






久しぶりに南仏をバスで走りならが25年も前のツアーを思い出した。ある視察ツアーでスペインの太陽海岸コスタデルソルから入り南仏のコートダジュール、北イタリアのリビエラに抜ける海岸線バスツアーである。

視察ツアーと言う事で中年の男ばかり30人位だったと記憶している。まだまだスペインの太陽海岸は今のような華やかさとは比べようも無い田舎で道路はもちろんリゾートマンションもポツポツと言う状態だった。
今でこそスペインは治安も西欧並みに悪く、物価も高いが、一昔前のフランコ時代は、つまりEC加盟前だが、観光客には天国の時代だった。堅苦しかったが物価が安く治安も良い「古き良き時代」のツアーの思い出だ。

スペインの太陽海岸から続く仏のコートダジュールそして伊のリビエラまでの海岸線も当時はニース、カンヌ、サンレモのような都市を中心とした、ほんの一部しか日本人には知られていなかった。まだ日本人観光客も少なく、古き良き時代にのんびりとバスで走った海岸線はいつまでも私の脳裏から離れない。

そのツアーはマドリ、パリ、ローマからお役人さんが1人ずつ付いてくれたと記憶してる。その中のパリの役人がとても話が分かる男で、我々が男だけなのをかわいそうに思ったのか、なぜか何回もパリと連絡を取っていたと思ったら、突然「明日、近くのヌードィストクラブに入れる許可を貰ったので、せっかくだから行って見ないか」とのお誘い。皆1も2も無く大賛成。他の視察を縮めても喜び勇んで行った。

場所は仏のコートダジュールの海岸でバカンスシーズンの最後だったと記憶している。バスで建物の中まで乗り付け、役人を先頭に服を着たまま歩いた。しかし日本人が行く事が分かっていたのか、皆ぞろぞろ出て来たのには驚いた。我々が服を着ているのを見ると、三々五々と散ってしまったのだ。
 彼等の姿や立ち振る舞いがとても自然で、恥ずかしそうでないのにも驚かされた。 恥ずかしいのはむしろこちら側で、堂々と寄って来られると、まともに見られない物なのです。若いカップルは勿論、年寄りのカップル、親子連れなど、皆前を隠さず堂々としていました。

金髪が多く大柄の白人が多かった事を思うと、北のゲルマン系が多かったと記憶している。どうやら太陽の少ない北の人ほどヌードに対して抵抗感がないと初めて知った。後に北欧へ行き少しでも太陽が出れば直ぐ裸になって焼いている彼らの姿を見ると納得した。

その当時デンマークなど夏は自国に居るよりもスペイン辺りの太陽海岸で1ヶ月過ごす方が安いという時代で、国が音頭を取って安いチャーター便をどんどん飛ばしていた時代だったが。
 勿論北の金持ち達のリゾートエリア憧れNO1は南仏コートダジュールである事は今も変らない。何はともあれこのヌーディスト村は良い経験でした。 

その後あるヌードィストクラブに入ったドイツ在住の日本人ガイド夫妻と話をする機会があったが、彼等の経験で面白い話を聞いた。白人は東洋の女性に対して変な先入観が有るとの事。男も女も子供までがあまりに奥方を見に来るので奥さんが嫌がってすぐ出てきてしまったとの事。
 この紙面では書けないが、東洋の女性に対するある種の蔑視であり、その偏見に私も聞いて驚いた。反対にジャポネの男性は浮世絵のお陰で過大評価されているらしいが、こちらの方はうれしい誤解である。

太陽が多い日本人にはヌーディスト村は要らないし、まだ体格的にも足を踏み込まないほうが無難であろう。
『ヌード村みんなで脱げは怖くない 』 てか 今日は落ちが格調低くなってしまった。

2009年9月5日土曜日

ベンチャー人コロンブスとイサベラ女王



イタリアのジェノバでコロンブスの生家を見たので、今日はコロンブスの話をしよう。1492年コロンブスがキューバ辺に到達した事は世界史が苦手な人でも少しは覚えているはず。
 時代は正にルネッサンスの真中。つまり理性的なギリシャ・ローマ文化が再び蘇がえって来た時代に生きた人。「地球は丸い」とのギリシャ哲人達の説を信じ、陸路で遠回りの東へ行かずに西へ船出して直接中国のシルク、インドの香辛料、黄金のジパングを目指したベンチャーな人である。

時代は着実に進歩する科学と反比例して宗教を束る教会が相変わらず迷信で民を縛り、脅かす (地球は平たく途中で落ちるとか、免罪符とか)ばかり。
 法王までが妾を持ち腐敗する時代。坊さんの言う事が段々と権威が無くなり始めた時代であった。教会の力と反比例して王や国家の力が強くなりイタリア都市国家などはその先陣を切って経済圏拡大に励む時代である。

コロンブスが生まれたジェノバはフィレンツェやベニスと同じようにイタリアの独立した貿易都市国家の一つであった。 
 コロンブスはベニスの組織力に後手を取らされていたジェノバ人。スポンサーが付かなかった原因は定かでないが、(転向ユダヤ人との説が有力。)ジェノバを去り、その当時大西洋、アフリカ航路では一番進んでいたポルトガルの王室に食い込み、北アフリカ横で東西に吹く偏西風の秘密を盗み出す。
 そしてポルトガルに拒否された西航路プランを持って隣のスペインに下りグラナダに残るアラブ人をほぼ追い出し終えた新興国スペインの王妃イサベラ女王の元にプランを売りに行く。

有名な話が有る。スペインでも断られたコロンブスがロバで隣のフランスに向かっていると、国境近くでイサベラ女王の使者が馬で追いつき連れ戻したと。もし彼が金持ちで馬にてフランスに向えば新大陸の富はフランスの物だったとの事。 
 上記の話は小説や映画的ではあるが、実話を言うとスペイン王家は隣のポルトガル王家の海洋開発事業に遅れを取り、かなり焦っていたと言うのが実情のよう。イサベラはすぐこのプロジェクトに関心を示したが、グラナダでイスラム教徒を追い出すドサクサだったので彼との接触が遅れ、なかなか会えなかったのがいつのまにかそんな噂になった。 
 将来グラナダに行く事が有れば、グラナダの中心広場にある二人の会見の像を観てこの話を思い出して欲しい。

グラナダ攻防戦の戦費でお金を使い果し、もう金が無い女王は船の費用を捻出するのに自分の宝石を売ったとの事。色々な噂が残っているが映画でも紹介されているので詳細は省くが一つだけ紹介する。
 初回の航海では3隻分の船乗りが集まらず一隻分は刑務所の死刑囚まで動員せねばならなかったとの事。そんな荒くれ男達を率いて何回も反乱寸前まで追いこまれながら成功させた彼のベンチャー心に注目し学びたい。
 ただ彼もアメリカでの行政能力の無さで不遇の晩年を迎えたが人生を悔いなく激しく生きた人には違いあるまい。彼こそベンチャーの先駆けと言ってよいだろう。
 それゆえ彼の名は南米のコロンビアという国の名に残り不滅に輝く。ただ彼が最後までインドの何処かと勘違したお陰でインディアンの名は残っても大陸命名の栄誉はフィレンツェ人アメリゴ(アメリカ)・ベスピッチに奪われたのは残念だったろうが。
 
地球が丸ければ東へ行かなくても西へ行けば、すぐそこにジパングの黄金や中国のシルク、インドの香辛料などがトルコやベニスの高い手数料、関税も払わず直接手に入る。実際に誰もが考え船出した人は数限りなかったろう。誰も帰って来なかったと言われる西への航海、日本の若者達にもそのトライに参戦させたかったと思うのは私だけであろうか。   
 
その後の歴史を見ると覇権は蘭、仏、英、米ソと移り、今アメリカの一人勝ち。アメリカの繁栄がこのまま続くか見守りたい。あのローマ帝国でさえ滅んだのが歴史である。
 
昔のように武力で国力を伸ばした時代と違いこれからは知価が国家を伸ばす時代へと変貌している。小国で繁栄を誇った英、蘭、ベニスのような先例もある。小国日本もチャンスである。チャンスの時代にこそ必要な物はベンチャー心と勇気であろう。若者よコロンブスやイサベラ女王の様にベンチャー心を持って恐れず前に向ってほしい。
 
本日のエッセイが親の苦労を知る2代目の戯言で終われば良いのですが。 我々の息子の代(3代目)には性格は良くてもぼんくらばかりで、中国辺りにペコペコするのではと心配で成らない。
             『売り家と 唐様で書く 3代目』てかー!
この川柳の意味が分かれば貴方は超一流の文化人と誇って良い。
PS:写真はコロンブスとイサベラ女王

2009年9月4日金曜日

ラマダンとは

イラクとの戦争で一躍ラマダンと言う言葉を知った人が多かったのでは。
イスラム教の5大戒律の1つと知っておいて下さい。ついでにイスラムの5つの大きな戒律①~⑤をのべよう。
① 1日5回メッカの方角に向かってお祈りをすべし。私には5回のお祈りも次のように聞えた。
朝=起きて働け。昼=食べて軽く休め。シエスタ終了=また働け。夜=夕飯だ。1日終り=寝ろ。
② お祈りの時:アラーは偉大な神で有り、マホメットは最後の予言者である事を言う〔原則はアラブ語〕
③ ハッジ:財力が許せば一生の間に1回は聖地メッカに行くべし。
④ 喜捨:お金持ちは貧しい人に喜んで施しをするべし。
⑤ ラマダン:今日の主題。富める者も貧しき者も等しく1ヶ月の断食をすべし。
 ただし本断食ではなく、朝日が出てから沈むまで何も食べず、飲まず。日没後食べてよい。一種の祭りである。この時期にアラブ圏を旅すると皆イライラしている事は確か。もっともお金持ちの王族の中には海外に出てしまう人が多いとか。私も何回か機内で着替えをし、西洋風のファッションで降りて行ったアラブの女姓を目撃しました。
 
本来マホメットが布教初期の時、敵に追われ逃げ込んだ洞窟の中で水と鳥の卵だけで1ヶ月飢えをしのいだのを忘れないためとか、皆一様に空腹感を分かち合う事で富めるものは貧しき者の事を考え自分を律するためとか、お互いイスラムの連帯を高めるためとかガイド達は色々言ってくれたが。
 どれも真実のようだ。だからこれだけ神聖なラマダンにミサイルをぶち込むのはクリスマスや復活祭にぶち込むと同じ感覚なので、アメリカも控えざるをえなかったのです。

でもこの時期皮肉な事に食料の消費量が他の月より増える事は有名。中東のバザールなどに行くと、夕方のお祈りに合わせ店の前の道にテーブルを出し皆で一斉に食べ始める姿はやはり何か胸打つ物がありました。そんな風景にトルコのバザールでは良く出会った。
 珍しそうに眺めていると、よく一緒に食べないかと誘われた。普段は食べる場所ではない店先の道路上で仲間と車座で食べる。祭りならではの光景である。皆空腹ゆえか食べ始めの時のなんとも嬉しそうな顔。まさにお祭りの顔になっていた。
 ちなみにイスラム諸国では今でも太陰暦を使っているので毎年少しずつラマダン開始日がずれて来る。彼らもこの祭りがずれて来て真夏にぶつかるとつらいとの事。 

ラマダン以外の戒律、例えば酒は飲むな。豚肉は食うな。4人までの妻はOK。少年の割礼〔ユダヤ人は生まれてすぐやる〕など日本人には分からない風習も多い。戒律もその宗教の成立過程を知り、砂漠の多い風土を見たり体験して始めて納得出来る事も有ります。例えば雪が降る北のイスラム国で酒を飲むイスラム教徒を時々見かけることなど。

イスラム国の中では親日的で日本の事を尊敬しているトルコから旅するとイスラムの国が好きにならないまでも、少しは理解出来るかも知れぬ。実際トルコを旅すると分かるがそのまま現地の人と結婚して住み着いている日本女性を他のイスラム国より多く見受けた。
 あの天敵ロシアを破った故か、巷にあふれる日本製品故か、ともかく日本人を尊敬しているのがうれしい。顔が西洋、心が東洋という国です。ヒッタイトの遺跡から、カッパドキアの奇岩、パムッカレの温泉、イズミールのギリシャ遺跡、有名な古代のトロイ遺跡、そして東西が交わるイスタンブールと毎日飽きさせない。

開祖マホメットの姉さん女房の言い伝えによると、彼の好きだったものは甘い物、香水、若い娘達だった由。晩年は4人ほどの若い女性に囲まれていたとの事。とても人間くさい開祖のようです。 

最後に世界3大宗教の3開祖が本断食〔40日間水のみで過ごす〕を成し遂げたと言う事実をご存知か。何か不思議を感じませんか。1ヶ月もやれれば、五感が異常に鋭くなり、手の先からすごい超能力が出るとの事。
 あなたも本断食して宗教家に成りませんか!そして麻原のようにハーレムを作って次のような説教でもしましょうか!
“若い娘よ、あなたの悩みは服を脱いですべてを開放すれば救われる”インシャラー(神の召すままに)
“年老いた娘よあなたの悩みは服を脱ぐと反って深まる 。顔まで隠しなさい”インシャーラー 
                落ちが少しセクハラ風に流れたことお許しあれ。

ワイン考2

ワインはなんと女性に似ている事か。そう奥が深く神秘的である。管理保管が難しい所などそっくり。よって飲む時は女房殿の取り扱いと同じくらい気を使いたい。殿方の多くは釣った魚に餌をあげなくなってしまうのが通常であろうが、何かの弾みで女性と高級レストランに行った時など、高いワインでも張り込もうではないか。き
 ざにならない程度にワインのうん蓄でも述べて貴君の格を上げよう。そんな時の楽しい会話ツールの一つとして以下をお読み有れ。

ワインの造り方
ブドウの収穫
収穫前に太陽が当たる事が必要。太陽によるブドウ糖濃度の濃さで殆どのワインの良し悪しは決まる。  ワインのラベルの年数に注意せよと言うのはこれです。
 南の暑いローマでも緯度は函館と同じゆえ欧州のぶどう園は棚形式ではなく太陽が沢山当るような垣根式が一般的。そして熟れたら変な虫が付く前にブドウ(娘)は収穫すべし。

ブドウを搾る
搾る時、熟した房や粒まで選んで搾るので有名なワインはドイツのアウスレーデやシュペートレーデなど。これは知って置きたいドイツ語タームである。女性も良い女を選別するべし。やはり素材は重要である。

ブドウ液の発酵
赤はブドウの皮(粕がオリになる)と一緒に発酵。白は搾ると同時に皮は捨てブドウ液だけで発酵させる。これを一次発酵と言い、1~2ヶ月くらいでブドウ糖がアルコールに化学変化する。黒ブドウの絞った皮を一緒に発酵させ、その皮がオリになるがその皮を早めに取り出すとローゼになる。
ワイフは濃厚の赤ワインのように、娘は少々の皮(男)と一緒に発酵させてローゼあたりにし込むのが良いか。

2次発酵
熟成とも言うが1次発酵のブドウの絞り粕を捨て、別の樽に移して最低半年位は寝かせる。ビンテージ物などは最低でも2年くらい寝かせるワインも有る。
うちの娘もじっくりと寝かせて教養を身に付けさせたいのだが、太陽が良く当らなかったせいでヌーボ状態。
 ボージョレ(村の名)ヌーボ(新)とは1次発酵が終わってすぐ瓶詰めにするワインで、2次発行させない若いワイン。でも世の中やはり濃厚より青く若い方が良いなどと言う外道もいますわな。
 ヌーボワインはワインとしては外道の酒なのです。フランスでは300円~500円で飲む安い酒。やはりワイン(女性)は熟れていませんと。

貯蔵
熟成する場所。ワインは暑さに弱いので直射日光の当らない15度前後の穴倉が理想。少し湿気も欲しい。
そばに変な臭いの無い事。揺らさない事などなど。赤はこれらの条件下ならば置けば置くほどビンでも熟成が進む。
よって高級レストランで地下から持って来た時、ラベルにカビが生えたようなワインは最高です。
正に深窓の令嬢です。だからうちの娘もワイフも余り表に出さず床の間に飾ったまま熟成させるのです。
防腐剤
ワインは放っておくと酢になるので痛まない様に防腐剤を入れる。これが少なければ少ない程飲み易く、 二日酔いが少ない。まれに色々な男と付き合った女性にすばらしい人がいるが、余り多くはないだろう。余計な物が入っていない女性の方が安心だが傷みも早い。vワインも女性もデリケートなのです。
ワインの選択
この頃ワインはアルカリ性ゆえ痩せるだの、ポリフェノールが多く健康に良いだので飲む人が増えて来たが、甘いワインと食事はあまり合わない。食事には辛口をお薦め。女性も見た目で選ばず中身で選べという事か。

仏ワインの2大ブランド
ボルドー
1種類のブドー液ではなく何種類かのブドー液をブレンドして発酵させる。初心者には少し樽の臭いに
違和感があるが、慣れると癖になる。有名な所ではマルゴー、ロスチャイルドなど(仏語=ロッシイルド)。
ブルゴーニュ
通常ピノ・ノワール種などの1種類のブドー液で醸造する。
癖が無いので、飲み易く、初心者の赤にはこちらを勧める。英語風に発音するとバーガンディー。開口腱さんが好きだった幻の銘酒「ロマネコンティ」(酒屋で最低20万円位から)で有名。

上の知識でキザにならない程度にレストランで2時間は過ごせるでしょう。スペインやイタリア、ドイツまで語ると一晩掛かるのでこの辺で。
素適な人とのディナーなら、屋台のラーメン屋でも私は一向に構わないのだが、向こうが構うでしょうな。          
 『へいお待ちー ラーメン2丁に、ロマネコンティ一本  ン?』
 これじゃー2時間もたねーてか!

2009年9月1日火曜日

トルコのガイド2人

先日私がわらじを脱いでいる会社に、昔一緒に仕事をしたトルコのガイド(男性)が2人してひょっこり訪ねて来てくれた。トルコの大地震でめっきり観光客が減り、暇になったので、ルック関係者のつてで新宿の超高級ホテルを1日一部屋8千円弱で泊まり、日本語の勉強、ルックツアーのプランニングの手伝いらしい。
 彼らもこれが初訪問ではなく、全て自費なので、物価の高い日本では大変だと思うのですが。何回も来たくなる彼らの本当の目的は日本女性に有ると思っているのですが。
 
まあともかく彼らの『もて方』というのは羨ましいの一言。何故かとつらつら考えて見るに、外見は完全な白人、心が半分日本人。これに尽きる。東洋の人は本能的に白人の異性に弱いのですが、言葉の問題、自己主張の強すぎる部分(つまり性格)などで我々にも十分勝つチャンスは有るのですが、この2つまでクリアーされてしまったら(つまり日本的な感覚まで持たれてしまったら)平均的な日本の男なら、素直に降参。それはねーよな~と言うしかあるまい。

久しぶりに話が弾んだのですが、一番印象的な事は、一生懸命トルコはイスラム国ではない事を強調していた。この国の知識人達(ガイドはトルコではかなり知識人レベル)もEUに入りたくて結構無理してるなーと感じました。
 日本人がお寺に行かないから仏教徒で無いとは外人は考えないだろう。それの反対と思えば納得していただけるだろうか。日本人は仏教で愛と浄土を、儒教で忠孝や礼節を、神道でよろずの神や穢れを、つまり習慣や行事の中から、そのアイデンティテーをなんとなく身につけている世界でも珍しい中庸な民族と言える。

私に言わせればトルコなどはイスラム教にどっぷりとまでは言わぬが、かなりの生活習慣にイスラムの影響を受けている国と断定して良い。よって彼等はイスラム国と十分に言える。さもなくばもっと早くEUに入れたはずです。良い例が欧州の高度成長時に入った出稼ぎ人が残ってしまったドイツ。
 ドイツのあちこちにトルコ村が出来、問題が起きている事は皆もTVなどで見ているでしょう。女性は髪を隠すスカーフを使うので、ドイツの女性は冬でも頭にスカーフをやらなくなった。キリスト教の行事に参加せず、仮のモスクを作りそこに集まりコミュニティを作る。摩擦は起きるべくして起きたと言える。

でもトルコは地政学的に見ればヨーロッパには必要不可欠なので、ロシア側に取り込められる前にNATOに取りこんでしまった。それゆえ今度はEUである。トルコサイドではこのガイド達のように知識人はEUに入れば豊かになる事は皆知っている故、必死にトルコは西洋だ西洋だと強調するのだろう。
 ロシアには何回も戦争で領土を取られているので、間違えてもロシアとは手を結ばないと思うが、隣のギリシャ(EUメンバー)とはキプロス島問題と言うより、隣の家との間に良くある、本能的な犬猿の仲。それに加えて欧州主要国のイスラム教嫌いがトルコのEU入りを阻んでいる。
 それ以上に宗教の違いと言うのは大きい。確かに今のイランや中東やアフリカのイスラム国を見れば宗教を政治から離すという事が、いかに難しいかを分からせてくれる。しかしそれをこの国でやった男がいる。

その人の名はケマル・アタチュルコという。この男は間違いなく20世紀の英雄の1人であろう。1次大戦の末期ギリシャ、英、仏、伊の連合国に国を滅ぼされる寸前に今のトルコの大きさをともかく保った(勿論昔の大国ではないが)。正に救国の英雄です。若き日のチャーチルを追い返した男と言えば少しは納得しますでしょうか。いつの日かトルコに行ったら必ず彼のお墓を見て、数々の写真から彼の目の輝きの凄さを見て欲しい。
 政教分離を始め、アラブ文字をローマ字化したりなど、全てを西欧化した人物です。今なら確実に暗殺されていたろうが、彼はまともに死ぬ。もしトルコがEUに入れたら、それはすべからくケマルのお陰であろう。

この国の魅力に取り付かれた日本人の多くが言う。「ロシヤを破ったと言う事やハイテク商品の凄さから、日本人には尊敬の目で接してくれる。」と。
 日本人にとってイスラム圏として快適に旅ができる数少ない国であろう。温泉や、奇岩の自然、踊るイスラム教、トロイの木馬、ギリシャローマ遺跡、東西のぶつかるイスタンブール。ヨーロッパに物足りなさを感じたら、ここを旅する事を進める。
『お嬢さんたち~ トルコ風呂ばかりじゃないんですよ~』
 また落ちが下品になってしまった。ごめんなさい