2009年9月15日火曜日

コーヒ夜話

漢の時代、中央アジアにいた匈奴の末裔と言われるオスマントルコ族が遊牧をしながらトルコ半島にまで到達したのは13世紀の事。 
 当時その地にあった東ローマ帝国の首都コンスタンチノープル(今トルコのイスタンブール)を滅ぼし、この西欧と東洋のつなぎの地にあったコンスタンチノープル(古名=ビザンチン)からイスタンブールと名前を変え、改めて首都を置いたのは1453年。 それから100年と少しでイスラムの半月旗がバルカンからハンガリーを席巻し、当時の神聖ローマ帝国の首都ウイーンにまで攻め上って来た。
 
ウイーン包囲戦は二回あるが、その時に囲まれたウイーン側の人達が今日の主題であるコーヒを始めて知り、西欧にもたらしたというエピソードが今日のお話。 その攻囲戦とコーヒの逸話を紹介する。
1:トルコに囲まれたウイーンの皇帝が既にコーヒ豆の事を知っており、援軍を呼びに行くメンバーに、それが成功したらトルコ軍の持っているコーヒ豆の独占販売権を与えると約束し、成功したとの説。

2:援軍を呼びに行く人を募った所、トルコ人とのハーフがコーヒー豆の事を知っており、その男が「成功した暁にはコーヒ豆の独占販売権を貰う」との確約を取ったとの説。
 その男はトルコ語が分かったゆえ、上手く囲みを突破し援軍を呼べたとの事。

3:援軍が来て囲みが解け、逆に逃げるトルコ軍を西欧側が追うと、黒いコーヒ豆が一杯残っていた。
『この良い匂いは何だ。コーヒと言う飲み物らしい。どうしましょう皇帝様。』『それでは今回の戦いで一番勲功が有った者達にこの豆をやろう』この説がエッセイ的には一番面白いが。実際のところ3つの説のミックスであろう。
 
以上な様な経緯でコーヒは西欧に入ったとウイーンの人達は言うが、実はイタリアのベニスの商人経由の方が早かったと思われる。その根拠として8世紀から彼らは交易相手としてトルコは勿論エジプトなどアフリカまで貿易販路を広げていたので、このコーヒーを知らないはずはなく、交易品の中に必ず入っていたろうという説である。
 という事でオーストリアの人には悪いがベニス経由の方が時間的には早かったという説を取りたい。
何はともあれ二つのルートで西欧人はコーヒを手に入れたが、ネスカフェのCMで知らされた通り、エチオピア原産のコーヒ豆がアラブ、トルコ経由で入って来て一般的になって行ったことは間違いがないようである。

ベニスとコーヒと言えばカフェが立ち並ぶサンマルコ広場は必見。すぐ目に入ってくるのは小オーケストラ付きのカフェ・クワドリ。映画「旅情」の中で主人公の出会いに使われた、カフェ・フローリアン。ここは欧州最古のカフェ店でもある。そのカフェが今でもそのまま営業しているのもすばらしいが、この辺で西欧人が始めてコーヒを口にしたという話はロマンがあって面白い。
 お茶をする時はゴシップ話が付き物。その2つのカフェのうち「クワドリ」のゴシップは面白い。そのオーナ貴族と若い日本人ハープ女性奏者との恋愛と結婚話である。その金持ちの老人の死後、遺産相続で遺族と彼女が揉めたとの事。後日談によると、その日本人は遺産を世界中に気前よく寄付しているとの事。日本女性の鏡の様な人である。

話はそれるが人工に築いた島、ベニスという所、イタリアではローマ・フィレンツェに並ぶ3代名所の一つである。 しかし現代のハイテクをしても沈んで行くベニスは如何ともしがたく、いつかは海の下に沈む運命のようである。
 沈む前にそのカフェで音楽でも聞きながらコーヒを楽しんでもらいたいのだが、行けない人はここを舞台の映画を思い出しながらのコーヒは如何か。そんな事を思って飲むと「たかがコーヒ、されどコーヒ」になること請け合いである。

話は戻るが、ウイーンへ行ったら必ず皆ウインナコーヒを飲む。ただウインナコーヒと頼んだのでは生クリーム入りのコーヒはいつまで経っても出て来ない。そんな名前のコーヒはない。そんな時はカフェ・アインスュペンナーと言ってください。ついでにウイーンらしく「ザッハートルテ」などのケーキを添えるとお洒落かも。
 田舎育ちの私にとってかなりの年までウインナコーヒとはモーニングサービスとやらで小さいウインナソーセージがパンと一緒にコーヒの横に付いている物とばかり思っていた大変な田舎者でした。
         『あのーこのコーヒ、ウインナソーセージが付いていませんが?』
 こんな話で彼女とのティータイム、一時間持ちます?

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