2011年10月31日月曜日

ローマでのフリータイムの見どころ2 フォロ・ロマーノ

前回はパンテオン周辺を紹介し、その続きを書く予定だったが、今日は先にローマ帝国の中心フォロ・ロマーノを紹介したい。
今この中に入ろうとすると3つの遺跡がワンセットのチケットを買う事になる。それはコロッセオ、フォロ・ロマーノ、パラチィーノの遺跡の3つである。最もパラチィーノの遺跡はフォロ・ロマーノの続きだし、コロッセオとフォロ・ロマーノも隣です。
コロッセオは言うまでもなく、映画グラディエーターでご存知の人間と人間、人間と猛獣の戦いなどでお馴染み。パラチィーノ遺跡はローマ発祥の丘と皇帝達の館跡である。

さてフォロ・ロマーノとは丘と丘に挟まれた湿地帯だった所を水を抜きローマの中心広場とした所である。全ての道はローマに続くと言うことわざがあるが、この道の最初で最後になる広場ゆえ、この遺跡はローマの最重要地である。
低い所なので上から[ただ見]が出来るので忙しい人はこれからいう私のエッセイ通り行って見てはいかがでしょう。なおフォーラムという言葉はこのフォロという広場から来ている。

まずローマの交通の要所ベネチィア広場のビットリア・エマヌエル2世広場側から500年前にミケランジェロが設計した緩やかな階段を市役所に向かって昇り、その広場の中心にあるグラディエータに出てくるマルクス・アウレリアヌスの騎馬像を右手に見ながら、市役所の横に出てフォロ・ロマーノを見下ろすというやり方である。 (上記左右の写真はフォロロマーノを市役所横から眺め下ろしている)

眼前の眺望の素晴らしさは無料にしては出来すぎ。真ん中を走るメイン・ストリートを勝ったローマ軍団が足を曲げずに凱旋してくる姿が目の前に迫ってくる。ナチスやムッソリーニのファシスト党の行進を記録映画で見ている世代ならば胸にじんと来るはずである。 (右はミケランジェロが設計したゆるやかの階段。この階段を登りきって左側から眺め下ろしてください)


それともう一つ私の個人的な好みだが、目の前に見えている凱旋門の前まで降りて行き、その凱旋門に彫ってある彫刻を見て欲しい。
勝ったローマ軍団が敵の捕虜を鎖につないで引き立てている彫刻と、捕虜が赤ちゃんを抱いて引き立てられている彫刻である。自分の子供であろうか、或いは途中で打ち棄てられていた子供であろうか、棄てていくには忍びなく思わず胸に抱きながらの行進である。まさに色々のことを想像させる彫刻である。











ローマ軍団の雄雄しい姿という人もいれば、えげつない彫刻という人もいる。そんな事を思いめぐらしながら見るとなかなかに楽しいものである。是非トライして欲しい。勿論時間があれば中に入り、2千年前の人々の息吹を感じたり、開いていれば元老院議事堂の中に入ってその空間に想いを馳せて欲しい。


ついでにローマの休日を見ている人ならば、この凱旋門の横はヘップバーンが宮殿を飛び出し寝ていた場所です。グレゴリーペックと初めて出会い、起こされて彼の下宿に連れて行かれたシーンを思いだす人も多いはず。映画を見ている人ならこのシーンの背景はここだ・ここだと思い起こすでしょう。

あなたの「ローマの休日」が映画のようにロマンチックにと願いたいのですが、休みの少ない日本人には「ローマの急日」というわけで、ロマンに出会う前にさようならですか!。
「休日よ さよなら さよなら さよなら! 良い映画でしたね淀川さん」
この洒落わかるかな~ もうわかんねえだろうな

2011年9月16日金曜日

ローマでフリータイムが有れば

この前ローマでフリータイムがあればパンテオンを見て欲しいと書いたが、今日はせっかくそこまで行ったら近くにあるサンタ・マリア・ソプラ・ミネルバ教会と聖イグナチオ教会にも足を運んでもらいたくて,このエッセイを書く。
パンテオンは2千年前のローマ遺跡が一番しっかり残っていると言ったが、上記の2つの教会はルネッサンスからバロックにかけての絵画や彫刻の巨匠達の作品が無料で見られる教会と言いたい。ともにパンテオンからは5分以内で行けるのでお勧めしたい。






(写真左=フィリッピーノ・リッピの受胎告知 写真右=ミネルバ教会)
今回はミネルバ教会の紹介。
ミネルバとはギリシャ神話のアテネ女神の事だが、ローマへ来るとラテン語でミネルバという。名前の通り古代のミネルバ神殿を中世にそのまま教会に直してからその名前の由来となる。この教会は別名ブルーの教会という。それはラピスラズリーという宝石に近い貴重石を天井のフレスコ画にふんだんに使っているからである。入ってすぐ天井を見上げると、天井の青空が見事である。中世に裕福だった教会ならではのフレスコ天井壁画である。



天井壁画が済んだらフラ・アンジェリコの描いた「聖母像」。祭壇正面右側のフィリッピーノ・リッピの描いた「受胎告知」などを見て欲しい。フラ・アンジェリコはルネッサンスの先駆けとしてミケランジェロやレオナルド達に影響を与えた有名な巨匠だし、フィリッピーノ・リッピはビーナスの誕生で有名なボッチェチェリの先生だったフィリィポ・リッピの子供である。特にフラ・アンジェリコやF・リッピの優しいタッチをとくとご覧あれ。疲れた心が一瞬でもなごみますよ。 (左写真=F/アンジェリコ 右写真=フィリッピーノ・リッピ)

それが済んだら祭壇正面の左側のミケランジェロ作の「十字架を抱えたキリスト」を見て欲しい。少々荒削りの彼の彫刻も一見の価値はある。
(左写真=ミケランジェロの彫刻 右写真=聖カテリーナの墓)





時間があったらイタリアの守護聖人の一人聖カテリーナとフラ・アンジェリコの墓もあるのだが特別カトリックの信者でない限り、時間がない人は芸術作品に的を絞って観賞して欲しい。
ちょっと歩くとこんな凄い絵や彫刻などがそこらじゅうに出てくる所がローマの凄いところであり、楽しいところである。


今回近くの聖イグナチオ教会に行ったが閉まっていたので、この教会の中のカラバッジョの作品と聖フランシスコの右腕のミイラは次回に回そう。聖イグナチオといえば聖フランシスコ・ザビエルと並んでイエズス会の創始者の一人で、日本では聖フランシスコほど有名ではないが欧州ではザビエルより有名な人である。 ともかくスペイン階段より15分以内でいける所なので是非トライして欲しい。


スペイン階段あたりはブランド品の店のオンパレード。財布が気になる人は無理矢理彼女を芸術作品の方に引っ張って行ってみてはいかがか。

それでも「グッチやフェラガモを買いたい、ヴィトンもある」と彼女が言ったらどうする。
グッチはアッチ、フェラガモ・カルガモはコッチ・ついでに羽根ヴィトンよりも芸術だーと叫びな!!。

2011年9月2日金曜日

    エジンバラ の 「ミリタリー・タトゥー」

今回はイギリスゆったりの10日間のツアーでした。ゆったりツアーだと、いつもはいけない所へ行ける。それが「ミリタリー・タトゥー」というイベントでした。
名前から想像すると軍隊と刺青という訳語がすぐ出るが、タトゥーには帰営ラッパとか太鼓という意味がある。つまり軍隊パレードを主体にしたショーを見せてくれるイベント。
場所はスコットランドの首都エジンバラ城の真ん前。イギリス連邦を中心の軍隊が中心だが、毎年各国の軍隊も呼ばれ行進パレードや花火・そしてちょっとした寸劇や踊りもありという音と光のショーである。特にエジンバラ城をスクリーンにした光の使い方はとても幻想的で、ここでしか味わえない工夫がしてあり飽きさせないショーだ。

今年呼ばれた外国の中ではオランダの自転車による軍隊のショーとドイツから来た軍隊のチロル風のショーが楽しく印象的でした。しかしやっぱり圧巻は地元スコットランドのバグパイプをメインにしたパレードでした。やはりスコットランドにバグパイプはよく似合う。


(写真左上 オランダの自転車部隊)(写真右上はドイツのチロル山岳部隊 ホルンの演奏)



  ショーは夜9時から10時半まで休みなく続き、最後は花火と蛍の光で終わる。久しぶりに感動した素晴らしいショーであった。蛍の光といえばスコットランドの詩人ロバート・バーンズが作った詩に作者不詳が作曲したことは有名。最後に皆がここで立ち上がり花火の中で各国語で歌う「蛍の光は」久しぶりに感激した。歌いながら日本旅行もなかなかやるじゃんと添乗員冥利に尽きた一瞬でもあった。 (写真左右 バグパイプ部隊)




 これからイギリス一周みたいなツアーを考えている方は是非スコットランドの入っている、しかもエジンバラに最低2日泊まってこのミリタリー・タトゥーの入っているツアーを選んで欲しい。 8月とは言え緯度的には樺太の一番北。それなりに寒く雨も多い。雨が降っても傘は使わせないゆえ、ホテルからバスタオルなどこっそり持ち出したりなどの工夫をしてみると良い。8月のイベントゆえ冬用の重いものをトランクに入れたくない人には冬に使うホッカイロを持参するとよいかも。








写真左右上 軍楽隊の間に行われる踊りのアトラクション)



 スコットランドでミリタリー・タトゥー見たよー といえば必ず聞かれる言葉。
  それって何だい!。 そしたら言ってやって「軍隊で皆が刺青するんだー」て、からかうのも面白いよ  


 P/S
でもここでちょっとだけがっかりしたことがある。それはショーの始まる前に行われる各国の観客に向けた司会者の呼びかけで日本人の応えた拍手が少なかったこと。しかも韓国人の後で呼ばれたことである。東洋人の中では中国・韓国・日本の順で呼ばれた。昔なら日本しか呼ばれなかったのに。何とも寂しく感じた一瞬であった。これも時代であろうか。

2011年8月21日日曜日

 この頃入れなくなったカプリの「青の洞窟」





海面から高さ1メートルくらいの洞穴へ入るのがこんなにも難しくなったのはいつ頃からたろうか。若い頃この仕事を始めた頃は冬でも入れていたことを思うと感慨深いものがある。地球温暖化のせいで海面が上がったせいか、少し北風が吹くとすぐクローズするので今では冬は勿論、夏でも簡単ではないようだ。青の洞窟に行くなら風が少なく、かつ満月に近くない日を選ぶと良いのだが、そんな事は旅行者には無理というもの.



洞穴の入り口が狭く、入る時は4人乗りの手漕ぎボートにみな寝転んで入るわけですから、怪我でもして訴えられたら人権が高いヨーロッパでは馬鹿高いお金を取られるので、それだけ難しい。
洞穴を広げたり、海面の波をシャットアウトする壁などは洞窟に入る光の屈折が変わったり洞窟内の青い色が変わるのでなかなか難しい模様。

今回は前日が晴天にも関わらず入れなかったのか、増えてきた中国人観光客やロシア人のせいなのか洞窟前の海のボート上でなんと2時間待たされた。お陰でみな船酔いには悩まされるわ、予定していたカプリ島での自由時間がなくなって大変。洞窟を見てカプリでランチしてそのままローマに帰るという何とも忙しいツアーになってしまった。

最も青の洞窟に入るために3回もイタリアに来たお客様もいたことを考えると、満月近い日に入れた方が奇跡と喜ぶべきか。

この青の洞窟に関して一言。古代ローマ時代の文献があまり残っていないので何ともいえないが、初代ローマ皇帝オクタビアヌス(シーザーが後継者に決めた別名アウグスト=シーザーの姪の子)は自分の持っていたナポリ沖のイスキア島(この島の方がずっと大きく、古代ローマ人が大好きだった温泉が出る)と部下の持っていたこのカプリ島を交換して手に入れたとの事。どう考えても損な取引のはず。


ここはやはりカプリに青の洞窟があったからとしか推論するしかない。噂を聞いた皇帝が一度この洞窟を訪れて気に入ったから交換したとしか考えられない。これ以来このカプリ島はローマ皇帝の別荘島になる。

洞窟が入れないときは島一番高いところからカプリ周辺の全景や真っ青の海や綺麗な公園や中世の貴族の館跡などを見られる。それなりに島の観光も出来るので、南イタリアに足を延ばした折にはぜひ訪れて欲しい。

カプリといえば青の洞窟。洞窟前といえば必ずボートでプカリ、プカリ お陰で船酔いで仕事にならず。

2011年6月5日日曜日

一年ぶりの北欧で

今回の訪問国はデンマーク・ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの4つでしたが、各国ガイドの説明の中で印象深かったことを少し.



(上記写真はストックホルムの市役所=左はノーベル賞の晩餐が行われるホール、右は晩餐後のダンスホール)

北欧といえば全てのガイド氏が必ず口にする言葉・高福祉、高負担の中味とは? 基本的に国に高く払った分、死ぬまで国が面倒見ますというコンセプトです。下記表の如く消費税だけとってみても4倍を越える。国によっては食べ物などの消費税が低く抑えられていますが、それでも驚くほどの高額です。
下記表の国民負担率という項目を見てもらうと分かるのですが、最低所得の人でも半分はお国にもっていかれる。これだけ取られたら日本では皆ブーたれるだろうが、北欧では皆が素直に払う。この疑問をガイド氏に質問すると皆一様に言った。代議士先生は威張らず、公務員の汚職がない。それゆえ国を信頼していますと。


スウェーデン 標準消費税= 25% 食料品消費税 =12% 国民負担率(2000年)=76,5%
デンマーク 消費税=一律25% 国民負担率=73.9%
フィンランド 標準消費税= 22% 食料品消費税=17% 国民負担率=66.6%
ノルウェー 標準消費税 =24% 食料品消費税 12% 国民負担率=56.2%
日本 標準消費税 =5% 国民負担率=37.2%
(国民負担率とは: 1年間に納めた税金と、それ以外に納めた税金と、それ以外に支払った年金や医療保険などの保険料とを合計した額が、収入のうちどれくらいの割合になったのかを示した数値。)



デンマークのG氏の言葉、「ある代議士先生がパリで夜のナイトクラブのショーに公費で行って大問題になったとのこと。」つまり皆がきびしくチェックできる羨ましいシステムがあるということ。



(写真はノルウェーオスロのバイキング船、ビーゲラン公園、ムンクの叫び)

高い税金を取られるゆえ税金を使う人を選ぶ選挙となると皆慎重になるとの事。投票率はどこも80%は越えるとのこと。選挙日も一日ではなく数日にまたがる場合が多い。また国民総背番号制ゆえ本人確認が簡単なこともあるが選挙する場所も広場や地下鉄の駅前であったりと日本では考えられないシステムがある。これなら選挙結果もどこかの宗教グループの高得票率に支配されないで済むでしょう。足腰立たない年寄りまで投票場まで車でお連れする宗教幹部の熱心さは私には少し不気味と感じるのだが、貴方はいかがか?

5週間の夏休みや、大学までの学費や医療費が無料であったり、老人福祉も日本同様に在宅介護が主流だが最後は国が丸抱えなど、全て北欧では当たり前。 (写真はコペンの人魚姫の像と観光客で賑わうニューハウン港)

あまり硬い話だとつまらないので面白い話をあと2つ。
フィンランドのG氏の話。スピード違反の取調べの現場を見て。「この国ではスピード違反の罰金はその人の所得の多少で多くなったり、少なくなる」との事。



(写真はコペンとストックホルムの王宮の衛兵交代)

スウェーデンのG氏の話「自分の12歳の娘の先生が離婚問題で悩んでいた時、クラスの離婚した親を持つ生徒の皆が、けなげにも先生を励ましたとの事。そこで先生がどの位の生徒が離婚経験者の親がいるか調べたら、22人のクラスで18人の親が最低一回は離婚しているとのこと。」それでそのG氏の娘が帰って来て親に聞いたことが面白い。
その娘は心配になって親に聞いたそうな。『うちはいつ離婚するの』幸いそのG氏はまだ同じ人らしいが。G氏いわく『離婚率は最低でも50%超えるんじゃないの』
北欧では保育園や幼稚園の施設が完備しているので男女みな仕事を持ち、女性も安心して働けるゆえ出生率は日本より高い。それゆえ女性も強く、離婚も高いのだそうな。 離婚はどちらか一方がNOを言えばすぐ別れられるそうな。北欧の女性と結婚しなくて正解。日本人でよかった・てところですか。





今回どの国でも男親が出勤前に赤ちゃんを保育園に連れて行く姿を何回かみたが、G氏が言うには
そんな男ほどカッコいいとの事。 日本人とかっこよいの基準が違うようですな。
日本の男達もベビーカーを引く男がカッコいいなどといわれたら古い私はどうしたらいいのよ。どうする。どうするよ!!




(右の初心はヘルシンキの朝市)

2011年5月21日土曜日

スイスの危機管理
















東日本の大災害で危機管理が随分と話題になり、ついスイスのそれを思い起こした。福島の議会でも原発と津波の危険性を注意喚起していたし、有識者の多くも同じ事を言っていた。それを議会は否決し、有識者の警告も東電は無視した。それゆえ原発事故は人災といってよい。スリーマイルやチェルノブイリの怖さを身近に感じていたにも関わらず、想定外といい続けた東電の経営者や議会人の責任はどうなるのか?。


それに引き換えスイスのそれはこれでもかと言うほどに想定外を準備している。
その1軍事:米ソ対立のさなか永世中立を謳い、国全体をはりネズミのように武装していたことは有識者なら知っているだろう。「中立だから誰も責めないで」などというかっての非武装中立を唱えた社会党のような甘い考えには立たず、20歳~50歳までの男子に兵役を義務付けていたのは有名な話。ツアー客にそのことを話すと皆感心したものだ。




冷戦も終わった今、兵役はゆるくなったとはいえ、今でも19歳になると20歳までに15週間の兵役を終え、40歳までの22年間に3週間の兵役を10回やらねばならぬ。700万チョットの人口。九州より小さい国なのに陸海空の3軍を持ち(海軍は湖があるので)、軍需費5000億を超える予算。職業軍人は3400人あまり、30万ほどの現役兵と40万ほどの予備役兵がいる。国の豊かさを保つのにこれだけの準備をしている。だからヒットラーもスイスを迂回してイタリアに入ったのだ。


面白い経験がある。ユングフラウの登山列車の中で機関銃を持ち、完全武装をした山の若者を何人も見たときには驚いた。その若者に詳しくは聞けなかったが兵役への行き帰りの様子が楽しそうで、かつ生き生きとしていたのがとても印象的であった。自衛隊アレルギーの政治家先生や戦争アレルギーの有識者に見せたかった。


その2核シェルター:冷戦中までは各家庭にシェルターを義務付けられていた。写真右の核シェルターはNetに出ていたスイスに住む日本人家庭の写真を拝借しているが、政府が半分補助費を出すとのこと。3ヶ月分の食料備蓄から始まって空気清浄機、水・薬その他の保管が義務付けられていた。スイスにガイド氏が付くツアーが少なくなったのでこのシェルターと備蓄の事は何処まで義務付けられているか聴けないのが残念だが、次に行ったら一般人に聞いてみようと思う。



面白い笑い話でこのエッセイを閉めよう。
独裁者達の会合での会話
「スイスのような豊かで綺麗な国を見ると国民が羨ましがって困るよ。いっそ滅ぼしちゃおうか。金さんよ!カダフィさんよ!どうよ。」
両者が期せずして言う「滅ぼしたりしたら俺が預けてあるスイスの隠し預金は大丈夫かえ。」スイスの特異性を示す話でした
PS:この2回ほど硬いエッセイで申し訳ない。初めて見る人は前の旅のエッセイを見て下さい。旅行に行きたくなるのはそちら。スイスへ一緒に旅したら道を壊す爆弾装置や山の中にある空軍基地や、観光地のすぐ傍にある大きな核シェルターを紹介しますよ。

2011年4月19日火曜日

「プラハの春」事件

前から気になっていた「プラハの春」事件でソビエトに抗議して焼身自殺した若者2人の墓参りに行ってきた。
「プラハの春」などといっても今の若者達には全く分からない人が多いので少し解説する。

1968年まだ米ソ冷戦の真っ只中、共産主義陣営のチェコスロバキアがソ連に反旗を翻し、人間の顔をした社会主義、つまり自由を求めて国民が立ち上がったが、ソビエト軍の戦車によってつぶされた。首都のプラハに入った戦車とソビエト軍の姿が世界中のマスコミに配信され、日本では時の進歩的文化人といわれた左翼系の学者やマスコミ人達を驚かせた衝撃的な事件でした。
翌年プラハの学生二人がソ連軍に抗議して戦車の前でガソリンをかけ焼身自殺を図った。自由に手が届く寸前だったので絶望して自殺という形でソ連軍に抗議した。
戦車の大砲の前で裸の胸を突き出して「打つなら私の胸を打て」と抗議した若者達の姿に全世界が胸を痛めた。 (左の写真は2人の墓、右は墓とバーツラフ広場)

時代を振り返ってみると、1945年の戦後から自由主義陣営と共産主義陣営の東西の冷戦が始まり、最初にハンガリーが1956年ソ連に反旗を翻し「ハンガリー動乱」、68年この「プラハの春」事件、80年ワレサ達に率いられた「ポーランドの民主化運動」そして89年のベルリンの壁の崩壊から東欧、中欧が自由化し、2年後92年に本家のソ連も崩壊して半世紀にわたる東西の冷戦は終わった。

このチェコの「プラハの春」事件は私にとり大学生になりたての多感な時代であり、初めて政治問題に目覚めたという事で特別な思い入れがあった。、それゆえ焼身自殺したこの若者2人の墓は前から気になっていたのだ。
この墓はプラハの中心部から歩いて10分~15分でいけるバーツラフ広場という場所なので時間があれば訪れて欲しい所。墓の横に2人の写真があり感動するのは間違いない。
このバーツラフ広場は89年のベルリンの壁崩壊後すぐにチェコ市民が再び自由を求めて革命を起こした場所でもある(ビロード革命)。この広場の建物の上から何十万という民衆に向かって初代の大統領になるハベルや、戦車に踏みにじられた時メキシコオリンピックでソ連の選手を負かした体操の選手「チャスラフスカ」などと言う自由の旗手たちが手を振り民衆を鼓舞した広場である。

私といえば共産主義国家を旅するまで自由のありがたみなど気にもせず、それが如何に素晴らしいものかを知ろうともしなかった。私はそれを旅行中に 肌で知ることができたが、机上での論理しか学ばない左翼学者やマスコミの有識者とやらがソビエトの中味を見たらどうであったろうか。マルクスやレーニンも「人間とは・欲望や嫉妬を持つ厄介な生き物」だともっと深く人間を見つめたら「資本論」も違った形になったであろう。
フランス革命から生まれた自由・平等・博愛は独裁者が出る度に踏みにじられて来たが、欧州は共産主義という独裁者を肌で体験しているゆえ、国民も政治家も独裁者には特別神経を尖らせているような気がする。平等という甘い言葉に酔っている若者達が少しでもこのエッセイで目が覚めてくれることを祈ってこれを閉じよう

硬く重いエッセイにも関わらず、ここまで読んでくれた貴方に感謝して一句。
「君の碑を 見あげるたびに 諭される 自由とは これほどまでに 高貴なり」
今日の落ちは少し硬すぎてごめん

2011年2月16日水曜日

コルドバのメスキータ

長く添乗員をやっていると何となく好きな教会が出てくるものだ。今日はその中の1つコルドバ゙のメスキータを紹介したい。キリスト教には縁もゆかりもない私だが、ヨーロッパに行けば教会は外せない観光スポット、いつの間にか教会通になってしまう。中でも大きさと豪華さで圧倒されるバチカンのStピエトロ寺院が感動の筆頭なら、このコルドバ゙のメスキータは私が2番目に好きな教会である。

何故なのかとつらつら考えてみると、ひとえにその幻想的なところであろうか。教会内に入ると外と中の光のギャップで一瞬立ち止まり、そして次は柱の並びが目に飛び込んでくる。これがとても幻想的で何とも魅惑的。この柱の群像がこの教会の真髄である。グループで行ったなら観光終了後10分ほど中でのフリータイムを貰うことを薦める。そして物思いに沈みながら歩いて欲しい。観光客が少なければ静けさとあいまってその感動がより増すのだが。

もともと奈良時代初期にジブラルタル海峡を渡り、瞬く間にイベリア半島を征服したアラブのイスラム教徒が築いたモスクゆえ、その作りは砂漠の民があこがれるオアシスを理想化したものである。オアシスの椰子林がそのモスクの中に林立している姿である。

北に押し込められたキリスト教徒が13世紀にこの地を取り返すまで、このコルドバ゙は彼らアラブ人の首都として10世紀には絶頂期を向かえガイドブックによっては50万ともそれ以上の人口を誇ったとも言い、ヨーロッパ中の学生が留学に来たほどの隆盛を誇った地である。(中世パリやロンドンでも10万程度の時代にですよ

通常キリスト教徒が再征服した地は、後の王達の命でモスクは壊され新たにキリスト教の教会として作り直される事が多いのだが、この教会はなぜか2割くらいしか壊さずに昔のモスクをそのまま残している。そのギャップもまた私をして好きにさせている理由であろうか。壊すには惜しいほど美しかったのではと想像したいのだが。

その時の王はスペインから全てアラブ人を追い出したイサベラ女王の孫のカルロス5世の時代で織田信長の時代に重なる。この時代ヨーロッパも激動の時代でドイツ側とスペイン側のハプスブルグ両王家は結んでフランスやイタリア、イギリスに戦争を仕掛けていた時代であった。
注:イサベラ女王とご主人のフェルデナンド王はコロンブスのスポンサーとして有名

イサベラは最後に滅ぼしたイスラム・アラブ人のグラナダ王国に自分とご主人の墓を作るよう命じたほどだから、アラブの町であろうとグラナダの美しさを素直に認める審美眼と度量をもっていたと想像する。それが彼女の孫の時代になると美しいものも壊すほどになってしまった。時代なせる業であろうか。異教的な物は許せないという狂信的な時代にスペインが突入した時代でもあった。その狂信的な理由も影響してかカルロスの子供のフィリップ2世の時代からスペインの没落は始まる。

さてその教会の中味であるが、まず柱の多さにびっくり今でも800本以上ある。それらは古代のローマ時代の遺跡を壊して持って来たものが多いが、そのリサイクルの仕方は見事で全然違和感がない。アラブ人がメッカの方を向かって祈る窪み(ミヒラブという)の美しい装飾はオリジナルそのもので見事という言葉しかない。数あるモスクの見学経験からしてこれほど美しく飾ったミヒラブは私も見たことがない。またカルロス5世が作り直したキリスト教の祭壇部分も椰子の林から解き放されたギャップがあって面白い。是非一度は見て欲しい教会である。 (写真左はキリスト教の祭壇右の2枚の金箔モザイクはイスラム・ミヒラブの中心部)






カルロス5世という王様はグラナダのアルハンブラ宮も半分くらい壊して、訳も分からないパンテオン風の神殿を作ったりと、審美眼には欠けた王のようであるが、イサベラの英邁さも3代目には薄れていくのは時代の流れであろうか。

最後はカルロスの面白い逸話から
メスキータの改築を見て言った王の言葉が残っている
「あの美しかったモスクを誰がこんなにしたのだ」
工事主任は言った「王様のご命令のままに」
王「何ぃ~ わしが。わしが壊せとな。」
“三太夫を呼べ、三太夫を”と言ったかどうかは知らぬが、全くどこかの馬鹿殿様みたい。
「三太夫」のギャグ分かるかな~ わかんねだろーな