2011年2月16日水曜日

コルドバのメスキータ

長く添乗員をやっていると何となく好きな教会が出てくるものだ。今日はその中の1つコルドバ゙のメスキータを紹介したい。キリスト教には縁もゆかりもない私だが、ヨーロッパに行けば教会は外せない観光スポット、いつの間にか教会通になってしまう。中でも大きさと豪華さで圧倒されるバチカンのStピエトロ寺院が感動の筆頭なら、このコルドバ゙のメスキータは私が2番目に好きな教会である。

何故なのかとつらつら考えてみると、ひとえにその幻想的なところであろうか。教会内に入ると外と中の光のギャップで一瞬立ち止まり、そして次は柱の並びが目に飛び込んでくる。これがとても幻想的で何とも魅惑的。この柱の群像がこの教会の真髄である。グループで行ったなら観光終了後10分ほど中でのフリータイムを貰うことを薦める。そして物思いに沈みながら歩いて欲しい。観光客が少なければ静けさとあいまってその感動がより増すのだが。

もともと奈良時代初期にジブラルタル海峡を渡り、瞬く間にイベリア半島を征服したアラブのイスラム教徒が築いたモスクゆえ、その作りは砂漠の民があこがれるオアシスを理想化したものである。オアシスの椰子林がそのモスクの中に林立している姿である。

北に押し込められたキリスト教徒が13世紀にこの地を取り返すまで、このコルドバ゙は彼らアラブ人の首都として10世紀には絶頂期を向かえガイドブックによっては50万ともそれ以上の人口を誇ったとも言い、ヨーロッパ中の学生が留学に来たほどの隆盛を誇った地である。(中世パリやロンドンでも10万程度の時代にですよ

通常キリスト教徒が再征服した地は、後の王達の命でモスクは壊され新たにキリスト教の教会として作り直される事が多いのだが、この教会はなぜか2割くらいしか壊さずに昔のモスクをそのまま残している。そのギャップもまた私をして好きにさせている理由であろうか。壊すには惜しいほど美しかったのではと想像したいのだが。

その時の王はスペインから全てアラブ人を追い出したイサベラ女王の孫のカルロス5世の時代で織田信長の時代に重なる。この時代ヨーロッパも激動の時代でドイツ側とスペイン側のハプスブルグ両王家は結んでフランスやイタリア、イギリスに戦争を仕掛けていた時代であった。
注:イサベラ女王とご主人のフェルデナンド王はコロンブスのスポンサーとして有名

イサベラは最後に滅ぼしたイスラム・アラブ人のグラナダ王国に自分とご主人の墓を作るよう命じたほどだから、アラブの町であろうとグラナダの美しさを素直に認める審美眼と度量をもっていたと想像する。それが彼女の孫の時代になると美しいものも壊すほどになってしまった。時代なせる業であろうか。異教的な物は許せないという狂信的な時代にスペインが突入した時代でもあった。その狂信的な理由も影響してかカルロスの子供のフィリップ2世の時代からスペインの没落は始まる。

さてその教会の中味であるが、まず柱の多さにびっくり今でも800本以上ある。それらは古代のローマ時代の遺跡を壊して持って来たものが多いが、そのリサイクルの仕方は見事で全然違和感がない。アラブ人がメッカの方を向かって祈る窪み(ミヒラブという)の美しい装飾はオリジナルそのもので見事という言葉しかない。数あるモスクの見学経験からしてこれほど美しく飾ったミヒラブは私も見たことがない。またカルロス5世が作り直したキリスト教の祭壇部分も椰子の林から解き放されたギャップがあって面白い。是非一度は見て欲しい教会である。 (写真左はキリスト教の祭壇右の2枚の金箔モザイクはイスラム・ミヒラブの中心部)






カルロス5世という王様はグラナダのアルハンブラ宮も半分くらい壊して、訳も分からないパンテオン風の神殿を作ったりと、審美眼には欠けた王のようであるが、イサベラの英邁さも3代目には薄れていくのは時代の流れであろうか。

最後はカルロスの面白い逸話から
メスキータの改築を見て言った王の言葉が残っている
「あの美しかったモスクを誰がこんなにしたのだ」
工事主任は言った「王様のご命令のままに」
王「何ぃ~ わしが。わしが壊せとな。」
“三太夫を呼べ、三太夫を”と言ったかどうかは知らぬが、全くどこかの馬鹿殿様みたい。
「三太夫」のギャグ分かるかな~ わかんねだろーな










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