2009年9月21日月曜日

「至高の愛」 “アガペィ”

ギリシャツアーが多いせいか「アガペーの愛」をよく思う。先日知り合いの結婚式でたまたま牧師が「アガペの愛」の事をしゃべりそれに感動させられたせいもある。
 感動の中味とは結婚式ゆえ勿論「愛」についてである。

ギリシャ語には愛という言葉が二つ有るとの事(本当は3つ)。文系の人はご存知だろう「アガペ」と「エロス」である。一口で言うと「アガペ」とは与える愛、「エロス」とは与えられる愛。
 詳しく言うと「アガペ」とは人に愛を与える事によりその中に喜びを、満足を、あるいは元気をもらう行為を言うらしい。 
 人間の行為の中では究極の美徳との事。ギリシャ哲学ではこのギブの愛を「至高の愛」と定義づけたよう。
 もう一つの愛「エロス」であるが、これは貰ったり奪ったりする事により自分が満足する、或いは元気になる行為とのこと。別の言葉で言えばテイクの愛。ギブ&テイク。ギリシャらしく分かり易いではないか。そして同じ愛でも「アガペ」の愛を「エロス」の愛の上に置き彼らの生活基盤としていた様子。
 まさにアガぺこそ人間が生きる上において、最高の徳として崇めていたらしい。 

ここから先は私の自説と言うか独断ゆえ軽く聞き流してもらいたい。
古代ギリシャの多神教の世界では、その多神教ゆえに皆が信心深かったと思いがちだが、見方を変えれば、それだけ神も希薄になり人生を快楽的に過ごしがちになる傾向があった。
 そんな世界ではエロス中心、今なら拝金主義と置き換えてよいが、そんな生活になりやすく人間社会もなにかと摩擦が増える。それを防ぐ為の方便だったのかと推測するが、ギリシャの賢人達が討論(シンポジオン)の果てに生み出したのがこの「アガペ」と言う愛の形ではなかったろうか。
 まさに究極の哲学である。一神教にありがちな狂信を防ぎ、さりとて行き過ぎた人間中心主義をも防いだギリシャ人の英知であろう。そんなバランス感覚の良かったギリシャ人達ゆえ、あれだけの文明を残せたのだと思う。こんな説を解いた教授はいないかも知れぬが、ギリシャ・ローマ文化に傾倒する私の独断と偏見と言って置こう。

その牧師はこんな事も言った。キリストで言う「愛」という言葉を日本で始めて具体的に皆が口にしたのは戦国初期に宣教師が持ち込んで以来との事。勿論キリスト教の「愛」と言えば「アガペ」であるが、日本人はこのアガペに相当するスペイン語やポルトガル語の「愛」という言葉が上手く訳せず、これを当初「一番大切な物」と言って居たそうな。面白い逸話ではないか。

宣教師にとって当時の日本人はとても内気な国民に見えたらしい。愛するとか好きとかの感情表現をストレートに出すのが余り得意な民族ではなかったようだ。
 私など求婚の言葉も憶えがないほど内気なスタイルで我が天使をゲットした事を憶えているが、私などが宣教師しからすれば典型的な日本人に見えたのだろう。

「アガペ」の溢れる嫁の影響で「アガペ」を意識する様にはなったのだが。いざ行動に移るとすぐ「エロス」に行ってしまう。この年になり聖人君主や哲人には遠く及ばずの境地である。

定義からすると人知れずのボランテア行為が「アガペ」であろうか。時々そんなボランティアを行う人種を見ると、我が身を振りかえって恥ずかしくなるが、どうやら死ぬまで「エロス」の愛を追いかけて行きそうである。
 全部が聖人君主ばかりだと、これも肩が張って疲れるので私のような人間もいても良いのではと一人で慰めている。  
「アガペ愛、目指したつもりが、ああエロス」。本日の落ちはいま一つ。

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