2009年9月7日月曜日

一神教と多神教の功罪  パレスチナアラブとイスラエル抗争を見て


アメリカの9・11テロ以来、中東やエジプトの旅が減った。私ごときには早く平和をと祈ること位しか出来ぬが。パレスチナのアラブ人とユダヤ人の領土争いで毎日人が死ぬのを見せられるのは辛い。
 
アラブ側の主張は2千年間住んでいた土地にユダヤ人は入ってくるなと言い、ユダヤ側は2千年前に住んでいた土地だからアラブ側こそ出て行けと譲らない。ユダヤ側は4回の戦争を通してほぼ2千年前の領土を取り返し、それを守るに必死である。逆に取られたアラブ側の憎悪は激しい。
 
ユダヤ側は自衛の為とはいえパレスチナ人を殺し追出しているが、アメリカの援助がユダヤ側に偏りすぎているせいか、パレスチナや隣国アラブの若者にとってアメリカが憎い。
 
ユダヤ人やアメリカ人を一人でも殺せば天国へ行けると信じて、パレスチナではユダヤ人の中へ爆弾をもって、イラクでは理由はどうあれ駐留アメリカ人の中へ爆弾を背負って車で突っ込むアラブの若者が絶えない。
 
TVで映さないがパレスチナを追出された難民部落がヨルダンやシリアにある。その生活は悲惨である。イスラムのお坊さんに聖戦で死ねば天国へ行けると教えられれば、自爆する若者が出て来て不思議ではない環境がそこにある。父母・兄弟の仇にとユダヤ人やアメリカ人を一人でも道連れにしようとするテロの根は深い。

仕事柄キリスト教、イスラム教、及びその2つの元になったユダヤ教に接する機会が多い。それ故いつの頃からか一神教について考える事が多くなった。
 
そもそも人は物心つく頃から自然界に畏れを抱き、多神教的感覚をもつのは自然なのに何ゆえにユダヤ人は一神教だったのかと。
 多神教のギリシャ・ローマでは美しい女性はビーナスの化身とされ、オリンピックで優勝したマッチョな男はヘラクレスに近いとして銅像まで作られ崇められた。多神教の神は形而上的で分かり易い。
 逆にユダヤやイスラムの一神教を見ると、彼らの教会シナゴークやモスクに神の形は何も無い。彼等の神「エホバ」や「アラー」は祈り以外では軽々しく口にする事も、描いたり彫ったりする事も出来ない。 
何故イスラエルのユダヤ人達はエホバ、アラブ人はアラーというただ一つの神を作り、それにアイデンティティを求めたのか。ずっと自問し続けていたが、何回かイスラエルと中東の砂漠ツアーをして少しだがユダヤ教やイスラム教が分かったような気がした。
 
ユダヤ教とイスラム教が生まれた所は過酷の自然状況下で死が隣り合わせという事を肌で感じた。砂漠では水の事以外は考えられず「山の神、海の神」だのと言っていられない。強い神を求めたくなる気持ちが実感できた。
 
欧米や日本の自然は緑も水も豊富で多様である。つまり多神教的、グレイである。砂漠を体験すれば分かるが、昼の暑さと夜の寒さは極端であり、わずかな水以外はすべて砂漠。そんな風土は人間を白か黒かの二者択一にさせる。過酷な自然は極端を生み、極端な一神教の世界は他の神を認めない。  
 真面目な人ほど排他的、狂信的になって行く。ただキリスト教の場合、色々な聖人や守護神を拝むので同じ一神教でも少し肌合が違う。

中東には幾多の民族が起きては滅んだが、しぶとく生き残ったユダヤ人は神から選ばれた民という考えを持つに至る。この選民思想がユダヤ人をして他と同化させず摩擦を生んだ。
 ヒットラーを始め歴史上の為政者のほぼ全部が虐めたと言っても過言では無い。表立って虐めなかった英米二国が天下を取った事はユダヤの金融資本がいかにこの2国に貢献したかを歴史が示す。それ故アラブ・テロ組織も9・11にユダヤ金融の象徴であるニューヨークのWTCビルに飛行機を突っ込ませたのだ。

一神教の泥沼戦争を見て日本の宗教観を思う。年末24日にクリスマス、31日に除夜の鐘で仏教、元旦の宮参りでは神道をと、一週間でまとめて3つの宗教を行う日本人の方が無宗教のようで意外とバランスの取れた人種なのだと。古代ローマの様に「法律は神が作るのではなく人間が作るもの」とした考え方が健全であろう。
 
ギリシャ・ローマや日本のような多神教の、言い換えれば絶対ではない相対と言う概念の中で育った人間の方が物事に偏らず調和が取れた人間の様な気がする。
 しかし意外だが日本人の中でその多神教的中庸文化がすばらしと気づいている人は少ない。それ故日本人のような多神教的な考えの人が調停にはうってつけなのだが。
「アラーとエホバ、仲良くさせたらノーベル賞」 今日は落ちが硬くてごめんなさい。
 この件でノーベル平和賞を貰える日本人が出てほしいものだが。

0 件のコメント: