始めてウィーンに行く日本人はその都市の美しさにまず皆驚く。格調高い王宮と公園のバランス、おしゃれな茶店とコーヒ&ケーキの美味しさ、ドイツ語圏とは思えない品のある料理、人々の優雅な身のこなし、など音楽以外でも旅人の心をくすぐる町なのです。
同じドイツ語圏でも遅れて歴史に登場して来たベルリンには真似ができない所でしょう。
歴史的な町並みを歩き、充実した美術館を見た後ワインでも傾けながら名曲を聞けば《これどウイーン》だとみな酔ってしまう。
中世の貴族服を着た音楽家(写真参照)とウエイターにかしずかれる音楽レストランがあるが日本人はこんな雰囲気に弱く、皆で舞い上がる。観光客が喜びそうなワルツやコンサートは毎晩。オペラだ、バレーだ、オペレッタだのと手を変え品を変え観光客から外貨を稼いでいる。
それだけの物を残したオーストリーハンガリー帝国のハプスブルク王家ってどんなん?とよく添乗員に質問されるので、その辺を今日は少し。
ここの王家は王の中のチャンピオンの称号である皇帝の位を持っていたせいか「栄光のハプスブルク王家」と呼ばれ、数ある欧州王家の中では最高の名家でした。
こちらでよく耳にする有名人としてはカルロス5世(マドリッドやウイーンの両美術館で馴染み=あごの長いのがこの王家の特徴ゆえすぐ分かる)、18世紀のマリア・テレジア女帝というよりはベルバラで有名なマリー・アントワネットの母、明治天皇と同時代で最後の皇帝フランツ・ヨーゼフとその奥方でヨーロッパじゅうに美人で名を轟かせたエリザベート(シシー写真参照)あたりであろうか。
そもそもハプス(鷹)ブルグ王家と言うのは北スイスの小さな領土から出発し13世紀ひょんな事から王の中のチャンピオンである皇帝の位を手に入れてから大きくなり始める。主に結婚政策で大きくなったと言うが、ちゃんと戦争もやる時はやった。
スイスの本拠地はウィリアム・テル達の百姓軍に押されたせいか、勢力範囲は北東へと延びて行き13世紀には既にウィーンに本拠地を置いている。
西欧から見るとウィーンは東に寄りすぎている様に見えるが東欧、北イタリア、バルカン諸国等がハプスブルク王家の主なる領土だったと分かると納得できる。
全盛期には神聖ローマ帝国という名前でドイツ、オーストリア、オランダ、ベルギー、スペイン、ポルトガル、東欧、バルカン半島、など欧州のほとんど、また新大陸まで領地を持っていた。
勿論どんどん独立されてしまうが第一次大戦までは東欧、バルカン半島の半分をがっちり押さえていた。映画サウンドオブミュージックのトラップ大佐は確か元オーストリーハンガリー帝国の海軍大佐だったはず。北イタリアの海に面する領土を王家が持っていた事がこれだけでも分かる。
16世紀に大ハプスブルグ王家はスペインとウイーンの2家に分かれて行くが、両王家は結婚で絆を深める。ウィーンに残るスペイン乗馬学校という名前がマドリッドとウイーンの繋がりを今に忍ばせる。
しかし両王家は近親結婚が過ぎたのか、スペイン側ハプスブルグ王家は17世紀に途絶える。ウイーン側は何とか残ったが、近親結婚の弊害は隠しようもなく、新興プロシアにジワジワと領土を侵されて行く。貿易で栄えていたドル箱オランダ、ベルギーは独立へと歴史の歯車は徐々に没落に向い、オーストリア側も一次大戦でプロシアと共に崩壊する。
まあ頭の痛くなる歴史はその位にして、有名なモーツアルトやベートベンなどの音楽家達や、クリムト、エゴンシューレ等の画家が、あのフロイトが、建築家オットーワーグナーが、その他諸々の文化人がウィーンで活躍した理由が、これで少しは納得していただけたろうか。現代では「トラさん」の唯一海外ロケがここで行われた。
ウィーンは中世パリやロンドンに勝るとも劣らぬ首都中の首都だった。それゆえ数ある有名人もウィーンに集まって来たのである。過去の栄光だけで食える国ってうらやましい。もしかしたらこれが今日一番言いたかった事かも知れぬ。
奥様を連れていつかウィーンを旅したら上記の話を思い出して欲しい。行く前に「第3の男」の映画を見てから行くとウィーンが身近に成ります事請け合い。オーソン・ウェルズとジョセフ・コットンの演技も渋いが映画の中に戦後の荒廃したウィーンがたくさん出て来て楽しい。映画としても傑作。 主題は『ワルだったけど、死んでもアノ人は私の男よ。それが女心というものよ』てかー?
いつの世でも女心は難しいものですな。最後のシーンが音楽とあいまって感動的。自分(ジョセフ・コットン)に気があると思っていた女が自分の前をわき目も振らず去って行くシーンは印象的でした。
ジョセフ・コットンが振られるこのシーンを吉本風に笑いとばそう。
俳優は「サンマ」と「大竹しのぶ」あたりがお似合いか? でもこの落ち分かるかな?
『あんなワル死んでもうた。はよう忘れて わてとやりなおそ。なあーしのぶ~。なあてば~しのぶ~』
同じドイツ語圏でも遅れて歴史に登場して来たベルリンには真似ができない所でしょう。
歴史的な町並みを歩き、充実した美術館を見た後ワインでも傾けながら名曲を聞けば《これどウイーン》だとみな酔ってしまう。
中世の貴族服を着た音楽家(写真参照)とウエイターにかしずかれる音楽レストランがあるが日本人はこんな雰囲気に弱く、皆で舞い上がる。観光客が喜びそうなワルツやコンサートは毎晩。オペラだ、バレーだ、オペレッタだのと手を変え品を変え観光客から外貨を稼いでいる。
それだけの物を残したオーストリーハンガリー帝国のハプスブルク王家ってどんなん?とよく添乗員に質問されるので、その辺を今日は少し。
ここの王家は王の中のチャンピオンの称号である皇帝の位を持っていたせいか「栄光のハプスブルク王家」と呼ばれ、数ある欧州王家の中では最高の名家でした。
こちらでよく耳にする有名人としてはカルロス5世(マドリッドやウイーンの両美術館で馴染み=あごの長いのがこの王家の特徴ゆえすぐ分かる)、18世紀のマリア・テレジア女帝というよりはベルバラで有名なマリー・アントワネットの母、明治天皇と同時代で最後の皇帝フランツ・ヨーゼフとその奥方でヨーロッパじゅうに美人で名を轟かせたエリザベート(シシー写真参照)あたりであろうか。
そもそもハプス(鷹)ブルグ王家と言うのは北スイスの小さな領土から出発し13世紀ひょんな事から王の中のチャンピオンである皇帝の位を手に入れてから大きくなり始める。主に結婚政策で大きくなったと言うが、ちゃんと戦争もやる時はやった。
スイスの本拠地はウィリアム・テル達の百姓軍に押されたせいか、勢力範囲は北東へと延びて行き13世紀には既にウィーンに本拠地を置いている。
西欧から見るとウィーンは東に寄りすぎている様に見えるが東欧、北イタリア、バルカン諸国等がハプスブルク王家の主なる領土だったと分かると納得できる。
全盛期には神聖ローマ帝国という名前でドイツ、オーストリア、オランダ、ベルギー、スペイン、ポルトガル、東欧、バルカン半島、など欧州のほとんど、また新大陸まで領地を持っていた。
勿論どんどん独立されてしまうが第一次大戦までは東欧、バルカン半島の半分をがっちり押さえていた。映画サウンドオブミュージックのトラップ大佐は確か元オーストリーハンガリー帝国の海軍大佐だったはず。北イタリアの海に面する領土を王家が持っていた事がこれだけでも分かる。
16世紀に大ハプスブルグ王家はスペインとウイーンの2家に分かれて行くが、両王家は結婚で絆を深める。ウィーンに残るスペイン乗馬学校という名前がマドリッドとウイーンの繋がりを今に忍ばせる。
しかし両王家は近親結婚が過ぎたのか、スペイン側ハプスブルグ王家は17世紀に途絶える。ウイーン側は何とか残ったが、近親結婚の弊害は隠しようもなく、新興プロシアにジワジワと領土を侵されて行く。貿易で栄えていたドル箱オランダ、ベルギーは独立へと歴史の歯車は徐々に没落に向い、オーストリア側も一次大戦でプロシアと共に崩壊する。
まあ頭の痛くなる歴史はその位にして、有名なモーツアルトやベートベンなどの音楽家達や、クリムト、エゴンシューレ等の画家が、あのフロイトが、建築家オットーワーグナーが、その他諸々の文化人がウィーンで活躍した理由が、これで少しは納得していただけたろうか。現代では「トラさん」の唯一海外ロケがここで行われた。
ウィーンは中世パリやロンドンに勝るとも劣らぬ首都中の首都だった。それゆえ数ある有名人もウィーンに集まって来たのである。過去の栄光だけで食える国ってうらやましい。もしかしたらこれが今日一番言いたかった事かも知れぬ。
奥様を連れていつかウィーンを旅したら上記の話を思い出して欲しい。行く前に「第3の男」の映画を見てから行くとウィーンが身近に成ります事請け合い。オーソン・ウェルズとジョセフ・コットンの演技も渋いが映画の中に戦後の荒廃したウィーンがたくさん出て来て楽しい。映画としても傑作。 主題は『ワルだったけど、死んでもアノ人は私の男よ。それが女心というものよ』てかー?
いつの世でも女心は難しいものですな。最後のシーンが音楽とあいまって感動的。自分(ジョセフ・コットン)に気があると思っていた女が自分の前をわき目も振らず去って行くシーンは印象的でした。
ジョセフ・コットンが振られるこのシーンを吉本風に笑いとばそう。
俳優は「サンマ」と「大竹しのぶ」あたりがお似合いか? でもこの落ち分かるかな?
『あんなワル死んでもうた。はよう忘れて わてとやりなおそ。なあーしのぶ~。なあてば~しのぶ~』
PS:宮殿の写真は夏の宮殿=シューンブルン宮殿
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