2009年9月23日水曜日

歴史に学ぶペルシャ戦




先日定額給付金12000円何がしを自民党政権から貰ったが、この時ふと2500年ほど前にアテネが活躍したペルシャ戦争を思いだした。
次の故事である。 2回目のペルシャ戦争を前にしてアテネ郊外で銀山が発見され、アテネ国は沸き立った。直接民主主義のアテネゆえ色々な意見が飛びかったのであるが、大勢は次の2つだった。1つは銀を皆で平等に分配すること。2つ目は来たるべきペルシャに備えてこの銀を戦費に当てるというもの。

ペルシャはマラトンの復讐戦(一回目のペルシャ戦)と称して今度は陸と海から大軍をそろえて向かってくるとの情報を得ていた。それでも市民は分配することに傾きかかっていたが、その時異議を唱えた将軍がいた。その男の名は「テミストクレス」  
彼は言う 「皆で分けてもほんの僅かな臨時収入にしかならない。この銀で来たるべきペルシャの艦隊に備えてアテネも海軍を増強せねば。この銀を利用して艦隊を増やそうではないか」と。議論のすえアテネはテミストクレスの艦隊を作る方にかけた。  古代の戦争は負ければ市民は奴隷になるのが常であり,兵力から判断するとペルシャの大軍にはギリシャ側は負けて当然の兵力といわれていた。立ち向かわずペルシャに尾っぽを振るのが当時の常識であったのだ。それゆえこのアテネ市民の大英断は後世の為政者への警鐘として良く引き合いに出される。

結果はアテネ海軍が敵のペルシャの何倍もの艦隊をサラミスの狭い海峡に誘い込んで、見事にペルシャ艦隊を壊滅して2回目のペルシャ戦争をギリシャの大勝利に導いた。それに比べるとわが日本民族はどうなっているのかと憂えてしまう。あれだけの金(給付金)を出すなら、一例としてエコ発電の風力や太陽光、地熱、海の波、等々、化石燃料に頼らないクリーンエネルギーを作り出すインフラに使えば孫子の代まで潤い、経済の活性化には即効性があると思うが。私の様な凡人でもこの位の景気策は出せるというに。

お小遣いをあげるから選挙を宜しくだとぉ~。その小遣いたるや孫の代にまで借金との事。何たる政治家どもの不見識か。アテネの歴史を学べといいたくなる。政治家どもには歴史を学ぶことを義務付けたくなった。 わが民族には「テミストクレス」のような政治家は出てこないのかと一人情けなく思っています?

余談だが、この2回目のペルシャ戦争を舞台にしてハリウッドが「300人」とかいうスパルタ陸軍全滅の映画を作りましたが、この時は日頃対立していたギリシャ・ポリスの8割方が固まりペルシャに立ち向かったとの事。(いつの時代にも日和見や敵に尾っぽを降るやからはいるものです)

この時アテネは後ろの陸側から、つまり北側から攻めてくる何十倍のペルシャ陸軍には最初から勝てずと見てアテネ市内は捨てた。女子供は島に非難させ、男衆は奴隷までも(自由を約束され)船に乗り、海戦に備え、見事サラミス海峡で戦い勝利したとの事。 当然アテネ市内はペルシャ軍に破壊されたが戦後復興された。余談だがこの時に作り直されたのが今に残るパルテノン神殿です。  

陸戦では300人の敗戦に危機感を抱いたスパルタが1つにまとまり、スパルタ陸軍を中心にギリシャ側は優位に立った。補給を船に頼っていたペルシャ側はその船をアテネに壊滅されてこの戦争は事実上終結した。 日露戦のバルチック艦隊の壊滅と同じ経路です。    戦後アテネの隆盛と求心力はライバルのスパルタのジェラシーを招き、2つの国を中心に全ギリシャが戦争となり、お互い自滅していき覇権をローマに取られるという歴史を我々は見る。

 余談だが、ふとこんな諺を思い出した。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」 
  「お小遣い あげても 選挙にぁ落ちちゃった」   これがホントの落ちかいな                                  

2009年9月22日火曜日

レオナルド・ダ・ビンチと最後の晩餐。



ミラノに行くと必ず見る観光スポットがある。サンタ・マリア・デル・グラッチェ「マリアさん・ありがとう」教会である。というよりはレオナルドダビンチの「最後の晩餐」の壁画がある教会と言った方が馴染みか。       
 500年程前ミラノの中心部にある教会の付属修道院の食堂壁にレオナルドによって画かれている。題のごとくキリストが死ぬ前日に12人の弟子と食べた最後の晩餐が絵のテーマである。

その絵は当時流行のフレスコ画法ではなくテンペラ画法で描かれている。その画法とは絵の具の顔料を卵で溶き、乾いた壁やキャンパスに描く方法である。今でも画家達が使う画法の1つだが、フレスコ画よりはるかに色鮮やかであり、今のような絵の具が無かった当時としては最高の画法であったろう。
 話それるが当時流行のフレスコ画とは、漆喰壁が乾く前にすばやく壁に色を置く手法である。乾くと何年経っても色落ちせず長持ちするがスピードが要求される。ちなみにフレスコとは英語のフレッシュにあたるイタリア語である。

レオ君は仕事が遅い上に、幾らお金を貰っていようが、他の事に興味が湧くと、それらに熱中してしまう性格の為か、晩餐の壁画はゆっくり描けるテンペラ画法で描いた。また話がそれるがレオナルドが頼まれた仕事を放っぽりだして熱中した仕事といえば大砲、機関銃、戦車、飛行機などの制作である。

さて壁画に戻る。食堂の壁に描かれたということで調理熱のせいなのか、画面上の卵の蛋白質の付く微生物のせいなのか、詳細は分からないが、描き終わるとすぐ傷み始めたとの事。その上2次大戦の米軍爆撃で天井に直撃弾を食らい3年も雨ざらしの状態にあったという悪条件が重なり、オリジナルの素晴らしさから離れてしまった。
 
NHKの修復模様をみると今回の洗浄作業で過去の画家達が上から何回も書き加えた様子がよく分かった。20年以上掛けて洗っている“のんびり”さにも驚いたが、新たに出てきたレオナルドのオリジナルの綺麗な絵にはもっと驚かされた。
30年前の洗浄時に見たときは暗かったせいか全体が黒っぽく見えたが今は全体的に色が薄く見える。
この絵で私が一番感激したことは、評論家達の「絵のウンチク」ではなく横に置いてあった一枚の写真であった。それは2次大戦の爆撃で壊されたこの教会に土嚢を積み上げ、残った壁画を必死に守るミラノ市民の写真であった。 詳しく言うと真中が吹き飛ばされた修道院・食堂部分の残った2枚の壁(この壁の1枚に晩餐の絵が有る)の絵を守ろうと市民達が土嚢を組んでこの壁画を守っていた写真だ。
 イタリア人の歴史好き、文化好き、芸術に対する心意気である。この辺にイタリア人のすごさと言うか素晴らしさを感じた。(現在ではこの写真はもう無い)

もしミラノに行く機会が有ったら、これは必見。但しこれを見るには日本からの予約か、これを見るツアーに入らないとみられない。もっともイタリアの事、キャンセル待ちという手もあるが、10分見るのに1時間~2時間も使う時間の余裕が必要。
 蛇足だがミラノは仕事には良い所でも観光では今一つの町かも知れぬ。観光の中にミラノが入っているなら別だが、日程に限りが有るならベニス、フィレンツェが入っているツアーを選ぶべき。それほどイタリアは奥が深い。 

ところでこの壁画は女房連れの時、ミラノのブランドファッション店から貴方の奥方の目をそらせるには格好の口実として使える。大方次のような会話になるのが落ちだが!。 
『お前が見たいと言ったから予定に入れたのに、買い物の為に抜けるのか。俺はなんとしてもこの絵を見るんだ。このまま行って見る。買い物に行くならお前一人で行きな。』
本当に行きそうだったら、もう一押し。『ミラノは結構日本人がドロボーの被害に遭うらしいよ、気を付けろよ。』
それでも奥方の方が語学は出来るは、度胸は有るは、なんて言う人は諦めて高い買い物に付き合うのですな。 
       「グッチで愚痴ってグッチャグチャ」 では次回    

風呂と香水とココシャネル

ローマ遺跡を前にいつも考えさせられ事がある。それは欧州ばかりでなくアフリカにまで残る風呂遺跡である。2千年前ローマ人が、あれだけの領土を征服した原動力の一つに、風呂をあげる学者が居るが、ローマ人が征服した地に残る大浴場の遺跡をパリ、ロンドン(バース)は言うに及ばずアフリカの僻地にまで見ると、なるほどと納得出来る。
 その風呂文化がヨーロッパでは廃れ、唯一東ローマ帝国の地トルコ方面に細々と引き継がれ、トルコ風呂という変な形で日本に入って来た事は皆も知っているかも。

欧州にて風呂の習慣が廃れた理由は、中世ペストなどの伝染病が定期的に流行ったからとのこと。風呂は皆が肌を間接的に接する所として一番ポピュラーな場所であったからであろう。病原菌が何であるかが分からなかった時代では仕方がなかったろうが、お陰でヨーロッパ人は中世において随分と不潔な生活を送っていたらしい。

フランスのベルサイユ宮殿でおなじみのルイ14世、彼も一生の間に2回しか風呂に入らなかったことは歴史が示している。しかし彼は風呂の代りに毎日体をアルコールで拭いたと言われている。そのアルコールの中にいつの頃からか香水を入れて出来たのがオード・トワレとのこと。
 また宮殿に常設トイレがなく、「おまる」で済ませていたことを考えると、その臭い消しに香水が発達したというのもうなずける。そう言えば平安貴族も香水の代りに「お香」を使っていたではないか。
貴族の恋には昔から良い香りが必要不可欠だったようである。

エジプト・メソポタミア以来、花が有る所には何処でも香水は作られていたようだが、やはりニース・カンヌ当たりの南仏がブランド的にも有名であろう。南仏の旅には必ず香水工場見学コースがあり、結構買ってしまう。

そこで有名なシャネルの5番だが。ココ・シャネルが北欧を旅した時、その地の白夜を見てイメージした香水だと言うのを何処かで読んだ事が有るが、真実はいかがなものか。どうも売らんが為めの作り話の様な気がするが。
 私も白夜は経験したが、回りが寝ているゆえ、ひたすら「静けさ」しか記憶にない。尤も愛する2人で行けばシャネルの5番の華やかな気分になれたかも知れぬが、私の場合はなんとも寂しい白夜の経験であった。きっと北欧は1人で行っては行けない所なのかも知れぬ。

サラリーマン諸君よ若い女性達が香水をデイト前に付けているのを見たら「体臭の少ない日本人には安いトワレのほうがお勧めだよ」などと言いながら上記シャネルのお話でもすると貴君の株も上がるかも。最もこの頃の若い男性もトワレを付ける人が増えたとか。おじさん達も負けずに柑橘系で若く迫ってみてはいかがか。

シャネル5番の香水を愛用していたマリリン・モンローが日本に来て記者会見で言った時の有名な逸話でこのエッセイを締めよう。
記者が聞いた 「モンローさん、寝る時はどんなネグリジェを?」 
モンローは言った。 『あらーん、私のネグリジェはシャネルの5番よ』
君の奥方は言った。 『あたいのはチャンネルの5番よ』  何か着て寝ろよーてかー!       

2009年9月21日月曜日

「至高の愛」 “アガペィ”

ギリシャツアーが多いせいか「アガペーの愛」をよく思う。先日知り合いの結婚式でたまたま牧師が「アガペの愛」の事をしゃべりそれに感動させられたせいもある。
 感動の中味とは結婚式ゆえ勿論「愛」についてである。

ギリシャ語には愛という言葉が二つ有るとの事(本当は3つ)。文系の人はご存知だろう「アガペ」と「エロス」である。一口で言うと「アガペ」とは与える愛、「エロス」とは与えられる愛。
 詳しく言うと「アガペ」とは人に愛を与える事によりその中に喜びを、満足を、あるいは元気をもらう行為を言うらしい。 
 人間の行為の中では究極の美徳との事。ギリシャ哲学ではこのギブの愛を「至高の愛」と定義づけたよう。
 もう一つの愛「エロス」であるが、これは貰ったり奪ったりする事により自分が満足する、或いは元気になる行為とのこと。別の言葉で言えばテイクの愛。ギブ&テイク。ギリシャらしく分かり易いではないか。そして同じ愛でも「アガペ」の愛を「エロス」の愛の上に置き彼らの生活基盤としていた様子。
 まさにアガぺこそ人間が生きる上において、最高の徳として崇めていたらしい。 

ここから先は私の自説と言うか独断ゆえ軽く聞き流してもらいたい。
古代ギリシャの多神教の世界では、その多神教ゆえに皆が信心深かったと思いがちだが、見方を変えれば、それだけ神も希薄になり人生を快楽的に過ごしがちになる傾向があった。
 そんな世界ではエロス中心、今なら拝金主義と置き換えてよいが、そんな生活になりやすく人間社会もなにかと摩擦が増える。それを防ぐ為の方便だったのかと推測するが、ギリシャの賢人達が討論(シンポジオン)の果てに生み出したのがこの「アガペ」と言う愛の形ではなかったろうか。
 まさに究極の哲学である。一神教にありがちな狂信を防ぎ、さりとて行き過ぎた人間中心主義をも防いだギリシャ人の英知であろう。そんなバランス感覚の良かったギリシャ人達ゆえ、あれだけの文明を残せたのだと思う。こんな説を解いた教授はいないかも知れぬが、ギリシャ・ローマ文化に傾倒する私の独断と偏見と言って置こう。

その牧師はこんな事も言った。キリストで言う「愛」という言葉を日本で始めて具体的に皆が口にしたのは戦国初期に宣教師が持ち込んで以来との事。勿論キリスト教の「愛」と言えば「アガペ」であるが、日本人はこのアガペに相当するスペイン語やポルトガル語の「愛」という言葉が上手く訳せず、これを当初「一番大切な物」と言って居たそうな。面白い逸話ではないか。

宣教師にとって当時の日本人はとても内気な国民に見えたらしい。愛するとか好きとかの感情表現をストレートに出すのが余り得意な民族ではなかったようだ。
 私など求婚の言葉も憶えがないほど内気なスタイルで我が天使をゲットした事を憶えているが、私などが宣教師しからすれば典型的な日本人に見えたのだろう。

「アガペ」の溢れる嫁の影響で「アガペ」を意識する様にはなったのだが。いざ行動に移るとすぐ「エロス」に行ってしまう。この年になり聖人君主や哲人には遠く及ばずの境地である。

定義からすると人知れずのボランテア行為が「アガペ」であろうか。時々そんなボランティアを行う人種を見ると、我が身を振りかえって恥ずかしくなるが、どうやら死ぬまで「エロス」の愛を追いかけて行きそうである。
 全部が聖人君主ばかりだと、これも肩が張って疲れるので私のような人間もいても良いのではと一人で慰めている。  
「アガペ愛、目指したつもりが、ああエロス」。本日の落ちはいま一つ。

パリのカフェにて






パリを旅するとちょっとした事で驚く事があるが、その中の一つにカフェの横並席が有る。勿論向かい合わせ席も有るが、有名なカフェほど横並びが多い。何時間座っていても追出されないので、のんびりと時を過ごすにはお勧めの場所である。道行く人を眺め、逆に眺められる場所といってよい。

色々な人を眺めるのは結構楽しい物である。オープンカフェでお洒落な女性と2人で、道行く人から眺められれば、舞台上の役者の擬似体験が出きるというもの。つまりお茶を飲む二人は道行く皆に眺められる役者であり、道行く人達を眺め返す観客でもある。
 一種の舞台の役者と観客の関係と言って良いだろうか。なんともヨーロッパ的であり、お洒落ではないだろうか。

軽く食べる時などは、椅子を少し動かすだけで二人の世界が作れるのもうれしい。なんといっても横並びは女性を口説く時にも都合がよい。まっすぐ女性の顔を見なくて済むので照れ屋には口説き易い。無意味に場を繕うためのタバコも要らない。本当に好きだと告げる時だけ目を見れば良いのであって、そんなに長く見つめ合わなくて済むので気が楽だ。
 向かい合せだと会話が途絶えるのに御互い気を使うが、横並びだと何故だか沈黙でも間が持てる。
道行く人を眺めながら、次の会話の作戦が練れる。

なぜか正面で女性の目を見ながら口説くと、私の場合大抵は疲れて失敗した。自身タバコを吸わないので間が取れず持て余すのかも知れぬ。色々繕おうとして、つまりへたな会話でカバーしようとして失敗したのだと思う。黙って見つめるだけで惚れられるタイプでもない男のつらいところであろうか。
 日本にも横並びの喫茶店がたくさん出て来て欲しいのだが。長く座られると回転が悪い故か、スペースの問題か、見たり見られたりが苦手な民族なのか、リサーチの資料でもあれば見たいものである。

パリのシャンゼリーゼでお茶をする機会があったら、凱旋門近くの「カフェ・フーケ」をお薦めする。「仏映画アカデミー賞」の選考会がこの上のレストランの中で行われるという格調高く値段も高いカフェである。
 そう女優バーグマン全盛時代の古い映画「凱旋門」の中に何回も出て来るあの店である。中に入ると壁に掛かる映画スター達の写真を見るだけでも価値があるが、席はやはり外の道路沿いに座り、町行く人を眺めながらのお茶を勧める。
 風月堂もこの店の名前フーケから取ったとガイド達が言う赤いテントで有名なカフェレストランである。

同じパリでも現地人をのんびり眺めるには、サンジェルマン・デ・プレの「カフェ・ドゥ・マーゴ」「カフェ・フロール」の方がお奨め。ただここは同性愛の人が多いので予備知識なくフラリと入らない方が無難かも。この辺のカフェーから実存主義や古くは啓蒙思想などが生まれたと言っても過言ではない所である。
ボルテールやデカルトのような大思想家達も書斎から出て、このカフェで頭を休めたり、道行く人を眺めながら色々と思索したのではなかったろうか。勿論お盛んな先生達ゆえ愛人との逢引に使った事は間違いないと思われるが。  
 現代の有名人ではサルトルやボーボワール、F・サガン、カミュ達の溜り場だった所と言えばお分かりだろうか。 ちょっとインテリ風な気分でお茶をするならここであろう。

日本人もこのようなカフェで道行く人を一日のんびり眺めながら余裕の時間を過ごせるようになれば高邁な定理や思想もたくさん生まれ、ノーベル賞をもらえる先生方も増えること間違いない。
 最後はパリゆえデカルト先生に敬意を払って決めて見たいが。私の様な凡人には次のような定理になってしまう。
『我(一日マドモアゼルを眺め)思う故に(Hな)我有り
今日の落ちは少々難解すぎたか。
この諺が分かるなら貴方のインテリ度はかなり上です。

2009年9月19日土曜日

キャンティワイン


中部イタリア・トスカナ地方を回る旅をした。トスカーナと言うと、食通はキャンティワイン、若い女性はフィレンツェのグッチ、フェラガモなどのファッション・ブランドの本店所在地。教養人であればルネッサンス発祥の地などが浮ぶ。

今日は花より団子、教養より食い気と行こう。特にワイン屋の倅として生まれた私としては忘れられないのがトスカーナのブランドワイン「キャンティ・クラシコ」である。
 普通のキャンティワインといえば幌をかぶった下膨れ姿のセクシーボトルが有名である。その赤ワインのボトルがすぐ浮ぶ人はかなりワイン通であろう。

このキャンティ・クラシコとの出会いは添乗員初期の頃フィレンツェのサバティーニ本店(六本木の支店はまだ在るか?)で出会ったのが最初であった。ブランド好きの日本人には人気の店だったが料理としては味が濃い上にヘビーで私にはいま一つの味と記憶する。しかしワインとだけはぴったり合った事を憶えている。ソムリエに薦められるままに選んだキャンティ・クラシコとの出会いであった。

キャンティクラシコにも色々なブランドが有る事を知ったのもこの時。トスカーナの限られた地域(畑)の指定銘柄という事を知ったのもこの時が始め。つまりクラシコの名は勝手に付けられないという事を知った。
 クラシコと名が付くと、日本の高級レストランでは1万円を越してしまうようだが。
日本で探す時は温度管理のよいところ、つまり夏の暑さに耐える場所に置いてある店をお薦めしたい。
私自身はキャンティから少し南に下がった畑で「ブルネリ・モンタルチーノ」と言うイタリア大統領が公式晩餐会に使うと噂の有るブランドワインをもっぱら土産として担いできたのが常でしたが。

良いワインは良い女性との出会いと似ていると言ったら、かなりキザだろうか。格調高い女性というのは高いワインと一緒で出会いの時、冷や汗を掻く事が多い。高いので美味いだろうと思って飲むと意外とそうでも無かったり、反対に安い地酒が予想外においしかったりする事もある。ワインの面白さもそこにあるのだが。
 カラフ入りの名も無い地酒ワインでも、なんとも味があって妙に忘れられなくなり何回もそのレストランに通ってしまう事もある。本当に女性とワインはよく似ている。

私など一番安い地酒が妙に忘れられなくなり、今の女房になってしまったのだが、管理が悪かったせいか(ろくな給料を与えなかった)、蓋を開けっぱなしにしてしまったのか(留守にしすぎた)、酢になりかけております。そろそろ他銘柄の新しいワインでも開けたい所ですが。

もしイタリアに行ったら、奥方のブランドショッピングに付き合うのも良いでしょうが、年代物【ビンテージ】のワインを1本探す事もお忘れなく。ついでにワイン用のつまみとして生ハムか生チーズでも買ってきて一緒に飲めば至福の境地。これぞイタリア旅行の楽しき思い出の一つになる事請け合いであろう。
勿論格調高いワインは飲む1時間くらい前にバカラ風のビンに開け、空気をたっぷりあて、香りを十分に出し、まろやかにして飲むなどの工夫が欲しい。
くれぐれもホストクラブの若者の様な一気飲みは辞めて欲しい。        
『我が女房 色艶だけは ビンテージ』 お後がよろしいようで

2009年9月18日金曜日

ハプスブルグ王家とウィーン







始めてウィーンに行く日本人はその都市の美しさにまず皆驚く。格調高い王宮と公園のバランス、おしゃれな茶店とコーヒ&ケーキの美味しさ、ドイツ語圏とは思えない品のある料理、人々の優雅な身のこなし、など音楽以外でも旅人の心をくすぐる町なのです。
 同じドイツ語圏でも遅れて歴史に登場して来たベルリンには真似ができない所でしょう。

歴史的な町並みを歩き、充実した美術館を見た後ワインでも傾けながら名曲を聞けば《これどウイーン》だとみな酔ってしまう。
 中世の貴族服を着た音楽家(写真参照)とウエイターにかしずかれる音楽レストランがあるが日本人はこんな雰囲気に弱く、皆で舞い上がる。観光客が喜びそうなワルツやコンサートは毎晩。オペラだ、バレーだ、オペレッタだのと手を変え品を変え観光客から外貨を稼いでいる。
 それだけの物を残したオーストリーハンガリー帝国のハプスブルク王家ってどんなん?とよく添乗員に質問されるので、その辺を今日は少し。
 
ここの王家は王の中のチャンピオンの称号である皇帝の位を持っていたせいか「栄光のハプスブルク王家」と呼ばれ、数ある欧州王家の中では最高の名家でした。
 こちらでよく耳にする有名人としてはカルロス5世(マドリッドやウイーンの両美術館で馴染み=あごの長いのがこの王家の特徴ゆえすぐ分かる)、18世紀のマリア・テレジア女帝というよりはベルバラで有名なマリー・アントワネットの母、明治天皇と同時代で最後の皇帝フランツ・ヨーゼフとその奥方でヨーロッパじゅうに美人で名を轟かせたエリザベート(シシー写真参照)あたりであろうか。

そもそもハプス(鷹)ブルグ王家と言うのは北スイスの小さな領土から出発し13世紀ひょんな事から王の中のチャンピオンである皇帝の位を手に入れてから大きくなり始める。主に結婚政策で大きくなったと言うが、ちゃんと戦争もやる時はやった。
 スイスの本拠地はウィリアム・テル達の百姓軍に押されたせいか、勢力範囲は北東へと延びて行き13世紀には既にウィーンに本拠地を置いている。
 西欧から見るとウィーンは東に寄りすぎている様に見えるが東欧、北イタリア、バルカン諸国等がハプスブルク王家の主なる領土だったと分かると納得できる。
 全盛期には神聖ローマ帝国という名前でドイツ、オーストリア、オランダ、ベルギー、スペイン、ポルトガル、東欧、バルカン半島、など欧州のほとんど、また新大陸まで領地を持っていた。
 勿論どんどん独立されてしまうが第一次大戦までは東欧、バルカン半島の半分をがっちり押さえていた。映画サウンドオブミュージックのトラップ大佐は確か元オーストリーハンガリー帝国の海軍大佐だったはず。北イタリアの海に面する領土を王家が持っていた事がこれだけでも分かる。

16世紀に大ハプスブルグ王家はスペインとウイーンの2家に分かれて行くが、両王家は結婚で絆を深める。ウィーンに残るスペイン乗馬学校という名前がマドリッドとウイーンの繋がりを今に忍ばせる。
 しかし両王家は近親結婚が過ぎたのか、スペイン側ハプスブルグ王家は17世紀に途絶える。ウイーン側は何とか残ったが、近親結婚の弊害は隠しようもなく、新興プロシアにジワジワと領土を侵されて行く。貿易で栄えていたドル箱オランダ、ベルギーは独立へと歴史の歯車は徐々に没落に向い、オーストリア側も一次大戦でプロシアと共に崩壊する。

まあ頭の痛くなる歴史はその位にして、有名なモーツアルトやベートベンなどの音楽家達や、クリムト、エゴンシューレ等の画家が、あのフロイトが、建築家オットーワーグナーが、その他諸々の文化人がウィーンで活躍した理由が、これで少しは納得していただけたろうか。現代では「トラさん」の唯一海外ロケがここで行われた。
 ウィーンは中世パリやロンドンに勝るとも劣らぬ首都中の首都だった。それゆえ数ある有名人もウィーンに集まって来たのである。過去の栄光だけで食える国ってうらやましい。もしかしたらこれが今日一番言いたかった事かも知れぬ。

奥様を連れていつかウィーンを旅したら上記の話を思い出して欲しい。行く前に「第3の男」の映画を見てから行くとウィーンが身近に成ります事請け合い。オーソン・ウェルズとジョセフ・コットンの演技も渋いが映画の中に戦後の荒廃したウィーンがたくさん出て来て楽しい。映画としても傑作。 主題は『ワルだったけど、死んでもアノ人は私の男よ。それが女心というものよ』てかー?
 いつの世でも女心は難しいものですな。最後のシーンが音楽とあいまって感動的。自分(ジョセフ・コットン)に気があると思っていた女が自分の前をわき目も振らず去って行くシーンは印象的でした。

ジョセフ・コットンが振られるこのシーンを吉本風に笑いとばそう。
俳優は「サンマ」と「大竹しのぶ」あたりがお似合いか? でもこの落ち分かるかな?
『あんなワル死んでもうた。はよう忘れて わてとやりなおそ。なあーしのぶ~。なあてば~しのぶ~』
PS:宮殿の写真は夏の宮殿=シューンブルン宮殿