2011年9月2日金曜日

    エジンバラ の 「ミリタリー・タトゥー」

今回はイギリスゆったりの10日間のツアーでした。ゆったりツアーだと、いつもはいけない所へ行ける。それが「ミリタリー・タトゥー」というイベントでした。
名前から想像すると軍隊と刺青という訳語がすぐ出るが、タトゥーには帰営ラッパとか太鼓という意味がある。つまり軍隊パレードを主体にしたショーを見せてくれるイベント。
場所はスコットランドの首都エジンバラ城の真ん前。イギリス連邦を中心の軍隊が中心だが、毎年各国の軍隊も呼ばれ行進パレードや花火・そしてちょっとした寸劇や踊りもありという音と光のショーである。特にエジンバラ城をスクリーンにした光の使い方はとても幻想的で、ここでしか味わえない工夫がしてあり飽きさせないショーだ。

今年呼ばれた外国の中ではオランダの自転車による軍隊のショーとドイツから来た軍隊のチロル風のショーが楽しく印象的でした。しかしやっぱり圧巻は地元スコットランドのバグパイプをメインにしたパレードでした。やはりスコットランドにバグパイプはよく似合う。


(写真左上 オランダの自転車部隊)(写真右上はドイツのチロル山岳部隊 ホルンの演奏)



  ショーは夜9時から10時半まで休みなく続き、最後は花火と蛍の光で終わる。久しぶりに感動した素晴らしいショーであった。蛍の光といえばスコットランドの詩人ロバート・バーンズが作った詩に作者不詳が作曲したことは有名。最後に皆がここで立ち上がり花火の中で各国語で歌う「蛍の光は」久しぶりに感激した。歌いながら日本旅行もなかなかやるじゃんと添乗員冥利に尽きた一瞬でもあった。 (写真左右 バグパイプ部隊)




 これからイギリス一周みたいなツアーを考えている方は是非スコットランドの入っている、しかもエジンバラに最低2日泊まってこのミリタリー・タトゥーの入っているツアーを選んで欲しい。 8月とは言え緯度的には樺太の一番北。それなりに寒く雨も多い。雨が降っても傘は使わせないゆえ、ホテルからバスタオルなどこっそり持ち出したりなどの工夫をしてみると良い。8月のイベントゆえ冬用の重いものをトランクに入れたくない人には冬に使うホッカイロを持参するとよいかも。








写真左右上 軍楽隊の間に行われる踊りのアトラクション)



 スコットランドでミリタリー・タトゥー見たよー といえば必ず聞かれる言葉。
  それって何だい!。 そしたら言ってやって「軍隊で皆が刺青するんだー」て、からかうのも面白いよ  


 P/S
でもここでちょっとだけがっかりしたことがある。それはショーの始まる前に行われる各国の観客に向けた司会者の呼びかけで日本人の応えた拍手が少なかったこと。しかも韓国人の後で呼ばれたことである。東洋人の中では中国・韓国・日本の順で呼ばれた。昔なら日本しか呼ばれなかったのに。何とも寂しく感じた一瞬であった。これも時代であろうか。

2011年8月21日日曜日

 この頃入れなくなったカプリの「青の洞窟」





海面から高さ1メートルくらいの洞穴へ入るのがこんなにも難しくなったのはいつ頃からたろうか。若い頃この仕事を始めた頃は冬でも入れていたことを思うと感慨深いものがある。地球温暖化のせいで海面が上がったせいか、少し北風が吹くとすぐクローズするので今では冬は勿論、夏でも簡単ではないようだ。青の洞窟に行くなら風が少なく、かつ満月に近くない日を選ぶと良いのだが、そんな事は旅行者には無理というもの.



洞穴の入り口が狭く、入る時は4人乗りの手漕ぎボートにみな寝転んで入るわけですから、怪我でもして訴えられたら人権が高いヨーロッパでは馬鹿高いお金を取られるので、それだけ難しい。
洞穴を広げたり、海面の波をシャットアウトする壁などは洞窟に入る光の屈折が変わったり洞窟内の青い色が変わるのでなかなか難しい模様。

今回は前日が晴天にも関わらず入れなかったのか、増えてきた中国人観光客やロシア人のせいなのか洞窟前の海のボート上でなんと2時間待たされた。お陰でみな船酔いには悩まされるわ、予定していたカプリ島での自由時間がなくなって大変。洞窟を見てカプリでランチしてそのままローマに帰るという何とも忙しいツアーになってしまった。

最も青の洞窟に入るために3回もイタリアに来たお客様もいたことを考えると、満月近い日に入れた方が奇跡と喜ぶべきか。

この青の洞窟に関して一言。古代ローマ時代の文献があまり残っていないので何ともいえないが、初代ローマ皇帝オクタビアヌス(シーザーが後継者に決めた別名アウグスト=シーザーの姪の子)は自分の持っていたナポリ沖のイスキア島(この島の方がずっと大きく、古代ローマ人が大好きだった温泉が出る)と部下の持っていたこのカプリ島を交換して手に入れたとの事。どう考えても損な取引のはず。


ここはやはりカプリに青の洞窟があったからとしか推論するしかない。噂を聞いた皇帝が一度この洞窟を訪れて気に入ったから交換したとしか考えられない。これ以来このカプリ島はローマ皇帝の別荘島になる。

洞窟が入れないときは島一番高いところからカプリ周辺の全景や真っ青の海や綺麗な公園や中世の貴族の館跡などを見られる。それなりに島の観光も出来るので、南イタリアに足を延ばした折にはぜひ訪れて欲しい。

カプリといえば青の洞窟。洞窟前といえば必ずボートでプカリ、プカリ お陰で船酔いで仕事にならず。

2011年6月5日日曜日

一年ぶりの北欧で

今回の訪問国はデンマーク・ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの4つでしたが、各国ガイドの説明の中で印象深かったことを少し.



(上記写真はストックホルムの市役所=左はノーベル賞の晩餐が行われるホール、右は晩餐後のダンスホール)

北欧といえば全てのガイド氏が必ず口にする言葉・高福祉、高負担の中味とは? 基本的に国に高く払った分、死ぬまで国が面倒見ますというコンセプトです。下記表の如く消費税だけとってみても4倍を越える。国によっては食べ物などの消費税が低く抑えられていますが、それでも驚くほどの高額です。
下記表の国民負担率という項目を見てもらうと分かるのですが、最低所得の人でも半分はお国にもっていかれる。これだけ取られたら日本では皆ブーたれるだろうが、北欧では皆が素直に払う。この疑問をガイド氏に質問すると皆一様に言った。代議士先生は威張らず、公務員の汚職がない。それゆえ国を信頼していますと。


スウェーデン 標準消費税= 25% 食料品消費税 =12% 国民負担率(2000年)=76,5%
デンマーク 消費税=一律25% 国民負担率=73.9%
フィンランド 標準消費税= 22% 食料品消費税=17% 国民負担率=66.6%
ノルウェー 標準消費税 =24% 食料品消費税 12% 国民負担率=56.2%
日本 標準消費税 =5% 国民負担率=37.2%
(国民負担率とは: 1年間に納めた税金と、それ以外に納めた税金と、それ以外に支払った年金や医療保険などの保険料とを合計した額が、収入のうちどれくらいの割合になったのかを示した数値。)



デンマークのG氏の言葉、「ある代議士先生がパリで夜のナイトクラブのショーに公費で行って大問題になったとのこと。」つまり皆がきびしくチェックできる羨ましいシステムがあるということ。



(写真はノルウェーオスロのバイキング船、ビーゲラン公園、ムンクの叫び)

高い税金を取られるゆえ税金を使う人を選ぶ選挙となると皆慎重になるとの事。投票率はどこも80%は越えるとのこと。選挙日も一日ではなく数日にまたがる場合が多い。また国民総背番号制ゆえ本人確認が簡単なこともあるが選挙する場所も広場や地下鉄の駅前であったりと日本では考えられないシステムがある。これなら選挙結果もどこかの宗教グループの高得票率に支配されないで済むでしょう。足腰立たない年寄りまで投票場まで車でお連れする宗教幹部の熱心さは私には少し不気味と感じるのだが、貴方はいかがか?

5週間の夏休みや、大学までの学費や医療費が無料であったり、老人福祉も日本同様に在宅介護が主流だが最後は国が丸抱えなど、全て北欧では当たり前。 (写真はコペンの人魚姫の像と観光客で賑わうニューハウン港)

あまり硬い話だとつまらないので面白い話をあと2つ。
フィンランドのG氏の話。スピード違反の取調べの現場を見て。「この国ではスピード違反の罰金はその人の所得の多少で多くなったり、少なくなる」との事。



(写真はコペンとストックホルムの王宮の衛兵交代)

スウェーデンのG氏の話「自分の12歳の娘の先生が離婚問題で悩んでいた時、クラスの離婚した親を持つ生徒の皆が、けなげにも先生を励ましたとの事。そこで先生がどの位の生徒が離婚経験者の親がいるか調べたら、22人のクラスで18人の親が最低一回は離婚しているとのこと。」それでそのG氏の娘が帰って来て親に聞いたことが面白い。
その娘は心配になって親に聞いたそうな。『うちはいつ離婚するの』幸いそのG氏はまだ同じ人らしいが。G氏いわく『離婚率は最低でも50%超えるんじゃないの』
北欧では保育園や幼稚園の施設が完備しているので男女みな仕事を持ち、女性も安心して働けるゆえ出生率は日本より高い。それゆえ女性も強く、離婚も高いのだそうな。 離婚はどちらか一方がNOを言えばすぐ別れられるそうな。北欧の女性と結婚しなくて正解。日本人でよかった・てところですか。





今回どの国でも男親が出勤前に赤ちゃんを保育園に連れて行く姿を何回かみたが、G氏が言うには
そんな男ほどカッコいいとの事。 日本人とかっこよいの基準が違うようですな。
日本の男達もベビーカーを引く男がカッコいいなどといわれたら古い私はどうしたらいいのよ。どうする。どうするよ!!




(右の初心はヘルシンキの朝市)

2011年5月21日土曜日

スイスの危機管理
















東日本の大災害で危機管理が随分と話題になり、ついスイスのそれを思い起こした。福島の議会でも原発と津波の危険性を注意喚起していたし、有識者の多くも同じ事を言っていた。それを議会は否決し、有識者の警告も東電は無視した。それゆえ原発事故は人災といってよい。スリーマイルやチェルノブイリの怖さを身近に感じていたにも関わらず、想定外といい続けた東電の経営者や議会人の責任はどうなるのか?。


それに引き換えスイスのそれはこれでもかと言うほどに想定外を準備している。
その1軍事:米ソ対立のさなか永世中立を謳い、国全体をはりネズミのように武装していたことは有識者なら知っているだろう。「中立だから誰も責めないで」などというかっての非武装中立を唱えた社会党のような甘い考えには立たず、20歳~50歳までの男子に兵役を義務付けていたのは有名な話。ツアー客にそのことを話すと皆感心したものだ。




冷戦も終わった今、兵役はゆるくなったとはいえ、今でも19歳になると20歳までに15週間の兵役を終え、40歳までの22年間に3週間の兵役を10回やらねばならぬ。700万チョットの人口。九州より小さい国なのに陸海空の3軍を持ち(海軍は湖があるので)、軍需費5000億を超える予算。職業軍人は3400人あまり、30万ほどの現役兵と40万ほどの予備役兵がいる。国の豊かさを保つのにこれだけの準備をしている。だからヒットラーもスイスを迂回してイタリアに入ったのだ。


面白い経験がある。ユングフラウの登山列車の中で機関銃を持ち、完全武装をした山の若者を何人も見たときには驚いた。その若者に詳しくは聞けなかったが兵役への行き帰りの様子が楽しそうで、かつ生き生きとしていたのがとても印象的であった。自衛隊アレルギーの政治家先生や戦争アレルギーの有識者に見せたかった。


その2核シェルター:冷戦中までは各家庭にシェルターを義務付けられていた。写真右の核シェルターはNetに出ていたスイスに住む日本人家庭の写真を拝借しているが、政府が半分補助費を出すとのこと。3ヶ月分の食料備蓄から始まって空気清浄機、水・薬その他の保管が義務付けられていた。スイスにガイド氏が付くツアーが少なくなったのでこのシェルターと備蓄の事は何処まで義務付けられているか聴けないのが残念だが、次に行ったら一般人に聞いてみようと思う。



面白い笑い話でこのエッセイを閉めよう。
独裁者達の会合での会話
「スイスのような豊かで綺麗な国を見ると国民が羨ましがって困るよ。いっそ滅ぼしちゃおうか。金さんよ!カダフィさんよ!どうよ。」
両者が期せずして言う「滅ぼしたりしたら俺が預けてあるスイスの隠し預金は大丈夫かえ。」スイスの特異性を示す話でした
PS:この2回ほど硬いエッセイで申し訳ない。初めて見る人は前の旅のエッセイを見て下さい。旅行に行きたくなるのはそちら。スイスへ一緒に旅したら道を壊す爆弾装置や山の中にある空軍基地や、観光地のすぐ傍にある大きな核シェルターを紹介しますよ。

2011年4月19日火曜日

「プラハの春」事件

前から気になっていた「プラハの春」事件でソビエトに抗議して焼身自殺した若者2人の墓参りに行ってきた。
「プラハの春」などといっても今の若者達には全く分からない人が多いので少し解説する。

1968年まだ米ソ冷戦の真っ只中、共産主義陣営のチェコスロバキアがソ連に反旗を翻し、人間の顔をした社会主義、つまり自由を求めて国民が立ち上がったが、ソビエト軍の戦車によってつぶされた。首都のプラハに入った戦車とソビエト軍の姿が世界中のマスコミに配信され、日本では時の進歩的文化人といわれた左翼系の学者やマスコミ人達を驚かせた衝撃的な事件でした。
翌年プラハの学生二人がソ連軍に抗議して戦車の前でガソリンをかけ焼身自殺を図った。自由に手が届く寸前だったので絶望して自殺という形でソ連軍に抗議した。
戦車の大砲の前で裸の胸を突き出して「打つなら私の胸を打て」と抗議した若者達の姿に全世界が胸を痛めた。 (左の写真は2人の墓、右は墓とバーツラフ広場)

時代を振り返ってみると、1945年の戦後から自由主義陣営と共産主義陣営の東西の冷戦が始まり、最初にハンガリーが1956年ソ連に反旗を翻し「ハンガリー動乱」、68年この「プラハの春」事件、80年ワレサ達に率いられた「ポーランドの民主化運動」そして89年のベルリンの壁の崩壊から東欧、中欧が自由化し、2年後92年に本家のソ連も崩壊して半世紀にわたる東西の冷戦は終わった。

このチェコの「プラハの春」事件は私にとり大学生になりたての多感な時代であり、初めて政治問題に目覚めたという事で特別な思い入れがあった。、それゆえ焼身自殺したこの若者2人の墓は前から気になっていたのだ。
この墓はプラハの中心部から歩いて10分~15分でいけるバーツラフ広場という場所なので時間があれば訪れて欲しい所。墓の横に2人の写真があり感動するのは間違いない。
このバーツラフ広場は89年のベルリンの壁崩壊後すぐにチェコ市民が再び自由を求めて革命を起こした場所でもある(ビロード革命)。この広場の建物の上から何十万という民衆に向かって初代の大統領になるハベルや、戦車に踏みにじられた時メキシコオリンピックでソ連の選手を負かした体操の選手「チャスラフスカ」などと言う自由の旗手たちが手を振り民衆を鼓舞した広場である。

私といえば共産主義国家を旅するまで自由のありがたみなど気にもせず、それが如何に素晴らしいものかを知ろうともしなかった。私はそれを旅行中に 肌で知ることができたが、机上での論理しか学ばない左翼学者やマスコミの有識者とやらがソビエトの中味を見たらどうであったろうか。マルクスやレーニンも「人間とは・欲望や嫉妬を持つ厄介な生き物」だともっと深く人間を見つめたら「資本論」も違った形になったであろう。
フランス革命から生まれた自由・平等・博愛は独裁者が出る度に踏みにじられて来たが、欧州は共産主義という独裁者を肌で体験しているゆえ、国民も政治家も独裁者には特別神経を尖らせているような気がする。平等という甘い言葉に酔っている若者達が少しでもこのエッセイで目が覚めてくれることを祈ってこれを閉じよう

硬く重いエッセイにも関わらず、ここまで読んでくれた貴方に感謝して一句。
「君の碑を 見あげるたびに 諭される 自由とは これほどまでに 高貴なり」
今日の落ちは少し硬すぎてごめん

2011年2月16日水曜日

コルドバのメスキータ

長く添乗員をやっていると何となく好きな教会が出てくるものだ。今日はその中の1つコルドバ゙のメスキータを紹介したい。キリスト教には縁もゆかりもない私だが、ヨーロッパに行けば教会は外せない観光スポット、いつの間にか教会通になってしまう。中でも大きさと豪華さで圧倒されるバチカンのStピエトロ寺院が感動の筆頭なら、このコルドバ゙のメスキータは私が2番目に好きな教会である。

何故なのかとつらつら考えてみると、ひとえにその幻想的なところであろうか。教会内に入ると外と中の光のギャップで一瞬立ち止まり、そして次は柱の並びが目に飛び込んでくる。これがとても幻想的で何とも魅惑的。この柱の群像がこの教会の真髄である。グループで行ったなら観光終了後10分ほど中でのフリータイムを貰うことを薦める。そして物思いに沈みながら歩いて欲しい。観光客が少なければ静けさとあいまってその感動がより増すのだが。

もともと奈良時代初期にジブラルタル海峡を渡り、瞬く間にイベリア半島を征服したアラブのイスラム教徒が築いたモスクゆえ、その作りは砂漠の民があこがれるオアシスを理想化したものである。オアシスの椰子林がそのモスクの中に林立している姿である。

北に押し込められたキリスト教徒が13世紀にこの地を取り返すまで、このコルドバ゙は彼らアラブ人の首都として10世紀には絶頂期を向かえガイドブックによっては50万ともそれ以上の人口を誇ったとも言い、ヨーロッパ中の学生が留学に来たほどの隆盛を誇った地である。(中世パリやロンドンでも10万程度の時代にですよ

通常キリスト教徒が再征服した地は、後の王達の命でモスクは壊され新たにキリスト教の教会として作り直される事が多いのだが、この教会はなぜか2割くらいしか壊さずに昔のモスクをそのまま残している。そのギャップもまた私をして好きにさせている理由であろうか。壊すには惜しいほど美しかったのではと想像したいのだが。

その時の王はスペインから全てアラブ人を追い出したイサベラ女王の孫のカルロス5世の時代で織田信長の時代に重なる。この時代ヨーロッパも激動の時代でドイツ側とスペイン側のハプスブルグ両王家は結んでフランスやイタリア、イギリスに戦争を仕掛けていた時代であった。
注:イサベラ女王とご主人のフェルデナンド王はコロンブスのスポンサーとして有名

イサベラは最後に滅ぼしたイスラム・アラブ人のグラナダ王国に自分とご主人の墓を作るよう命じたほどだから、アラブの町であろうとグラナダの美しさを素直に認める審美眼と度量をもっていたと想像する。それが彼女の孫の時代になると美しいものも壊すほどになってしまった。時代なせる業であろうか。異教的な物は許せないという狂信的な時代にスペインが突入した時代でもあった。その狂信的な理由も影響してかカルロスの子供のフィリップ2世の時代からスペインの没落は始まる。

さてその教会の中味であるが、まず柱の多さにびっくり今でも800本以上ある。それらは古代のローマ時代の遺跡を壊して持って来たものが多いが、そのリサイクルの仕方は見事で全然違和感がない。アラブ人がメッカの方を向かって祈る窪み(ミヒラブという)の美しい装飾はオリジナルそのもので見事という言葉しかない。数あるモスクの見学経験からしてこれほど美しく飾ったミヒラブは私も見たことがない。またカルロス5世が作り直したキリスト教の祭壇部分も椰子の林から解き放されたギャップがあって面白い。是非一度は見て欲しい教会である。 (写真左はキリスト教の祭壇右の2枚の金箔モザイクはイスラム・ミヒラブの中心部)






カルロス5世という王様はグラナダのアルハンブラ宮も半分くらい壊して、訳も分からないパンテオン風の神殿を作ったりと、審美眼には欠けた王のようであるが、イサベラの英邁さも3代目には薄れていくのは時代の流れであろうか。

最後はカルロスの面白い逸話から
メスキータの改築を見て言った王の言葉が残っている
「あの美しかったモスクを誰がこんなにしたのだ」
工事主任は言った「王様のご命令のままに」
王「何ぃ~ わしが。わしが壊せとな。」
“三太夫を呼べ、三太夫を”と言ったかどうかは知らぬが、全くどこかの馬鹿殿様みたい。
「三太夫」のギャグ分かるかな~ わかんねだろーな










2011年1月12日水曜日

ポンペイの魅力

南イタリアの旅に欠かせない観光スポットといえばカプリの青の洞窟に並んで有名な「ポンペイの遺跡」の魅力を述べたい。 下手なガイド氏や添乗員によってはただの石の遺跡の1つになってしまうのが残念なのでここの魅力をたっぷりと。
まず時代背景を述べねばならない。イタリアにいた原住民と共存しながらギリシャ人がこの町を本格的に貿易港として築いたのはBC6世紀頃というから日本ではまだ縄文式時代の竪穴式住居などといった穴を掘って暮らしていた時代のこと。その後再び原住民のサムニウム人の支配などを経ながらローマ帝国の時代へと進む。現在目の前に見られる遺跡はBC3世紀から2世紀にかけてのローマ時代の物が中心だが、日本では大陸から稲が伝わる前、つまり弥生式時代前の縄文時代であったことに注目して欲しい。 つまり魅力の1つは同時代の日本の集落との比較である。

九州や登呂遺跡などの遺跡からの想像複元図を見ると(石の文化と木の文化ではかなりのハンディはあるが)その規模や文化の進み具合の差に愕然とするはず。ガイド氏が同時代の日本の文化との比較を最初に丁寧に説明してくれればそれだけでも驚きの目で見てくれるはず。 それともう1つ忘れてはならないこの遺跡の魅力は通常の発掘遺跡が自然風化した遺跡ゆえ基礎石しか残っていないのに比べ2千年前の建物や生活空間がそっくり我々の目の前に迫ってくる凄さであろうか。

BC79年の夏8月突然近くのベスビオ山が噴火してその熱い火山灰などでそっくり埋まってしまったのだ。つまり日常生活がそのまま埋まってしまったので食べかけのパンや食料品の数々・支払い途中のテーブル上の銅貨(ナポリの考古学博物館内)や、逃げながら死んで行った人間や動物の生々しい死姿が発掘されている。それゆえ考古学に興味のない人にもかなり面白く感じられる遺跡である。 注:人間や動物の死骸の肉の部分は空洞化するが、その空洞へ上から石膏を流し込み、乾いた後に掘り出すと、その時の死んだままの姿で掘り出せる。(遺跡のそこかしこに見られる) (鼻を押さえながら死んだ姿は痛ましい)










ガイド氏に寄れば人口は1万2千人~2万人少々の(この町の規模と、劇場や闘技場の収容人数から割り出している)典型的なローマ帝国時代の地方都市の1つであるとの事。火山灰で埋まる前は町のすぐ傍まで海岸線が来ており、海に流れ出す川の河口に作られた典型的なローマ時代の貿易港として繁栄を謳歌していた様子は、この噴火を生々しく描写している小プリニウスの記述からよく分かる。




(注小プリニウス:当時叔父の大プリニウスはこの地方の総督であり、住民の救出に向かい自ら火山ガスで死ぬ。彼はその様子を友への手紙で残している。詳細は塩野七生著の「ローマ人の物語」を参照 以下写真を追いながらその魅力に迫ろう。 )




ポンペイのフォロ: 中心にジュピター(ギリシャ名=ゼウス)の神殿を配し、回りを2階立ての回廊で囲む青空広場。回りにはアポロンの神殿・裁判所・ローマ皇帝等の像広場・両替商・市場・運搬業者=フォロ横にある宅急便屋 等々。(上記左の写真はフォロの広場 ・右の写真は宅急便屋の看板) 左写真はフォロへ入る前の馬車止めと石畳のメインストリート。歩道と車道が分かれている事に皆感動。 右写真はメインストリートに面した2階建ての住居(一階は店,二階は住居) 無料の上水道の水汲み場:長年の手の力で磨り減っている手すり跡は生々しい。




*裕福の家には水道パイプ(鉛の鉛管)から特別料金を払って自家へ上水道を引いていた。こんな時代に鉛管が引いてある技術に皆驚く。 (注:ローマ人は川の水を飲むと伝染病になることを知っていたらしく、上水道は山の遠くから水道橋を作り綺麗な水を町に引き、飲み水として町の広場〃で流しっ放しにしていた。それゆえ通りには絶えず水が流れておりその水により汚れ物を下水まで運び川やその先の海へ流していた。)




売春宿:「狼の遠吠え」(伊語=ルパナーレ)と呼ぶポンペイ一の人気スポット。 2階建の中へ入ると男女の色っぽいその場面を表す浮世絵風の壁画が現存している。前に浴場、隣には薬屋がある。風呂で綺麗になった後はユンケル飲んで、いざ娼婦館へか!! 今の薬局は十字架のマークが掛かっているが、古代は隣の薬屋の壁にある蛇のマークが一般的。*娼婦館は25軒発掘されている。キリスト教が入る前の世界では性欲は今よりもっと自然の摂理として捉えられていたので倫理観は今よりずっとおおらか。



男湯の浴場跡:サウナ・お湯風呂・水風呂(女性にはなかった)の3点セットが見られる。 *運動場(ローマ人は戦いに備え体を鍛える場所を風呂場の近くに用意した)・着替えルーム・温風が流れていた二重壁の様子。サウナルームで見られる「しずく避け装置」等を見られる。 (写真左は二重壁の中、右写真はしずく避けのスジの姿) 牧神の家:高校の世界史に載っているアレキサンダー大王とダリウス王との「イッソスの戦い」の床モザイクが出たところ。(今コピーが見られる) パン屋跡:現在のピザ屋と全く同じ作りのパン焼釜と小麦を引く石うす。




秘儀荘: 自家の中にワインを造る道具なども備わったポンペイ城壁外の別荘。当時上流階級の婦人達の間で流行した密教=バッカス教・入信儀式を描いたとされている「ポンペイの赤」として有名な赤色がくっきり残るフレスコ画 注:バッカス神(ギリシャ名=ディオニッソス神)酒の神として有名 (注:当時の赤色の絵の具は小さな巻貝の一種から取り出して作ったとの事)



劇場と闘技場跡:闘技場はローマのコロセッオの三分の一もない。ここまで足を伸ばすツアーはないが、この2つはローマ時代の地方都市には必ずあった娯楽施設 以上ざっとですがポンペイに行ったら見ておきたいスポットを列記しておきました。 古代ローマの遺跡の殆どは大都市の下に埋もれているので見る事が出来ないが、ここはそれが見られます。やはりイタリアに行ったら必ず見て欲しいスポットです。




「ポンペイのタイムカプセル歩けば夢ロマン  娼婦・泥棒までが 闊歩する」