2011年1月12日水曜日

ポンペイの魅力

南イタリアの旅に欠かせない観光スポットといえばカプリの青の洞窟に並んで有名な「ポンペイの遺跡」の魅力を述べたい。 下手なガイド氏や添乗員によってはただの石の遺跡の1つになってしまうのが残念なのでここの魅力をたっぷりと。
まず時代背景を述べねばならない。イタリアにいた原住民と共存しながらギリシャ人がこの町を本格的に貿易港として築いたのはBC6世紀頃というから日本ではまだ縄文式時代の竪穴式住居などといった穴を掘って暮らしていた時代のこと。その後再び原住民のサムニウム人の支配などを経ながらローマ帝国の時代へと進む。現在目の前に見られる遺跡はBC3世紀から2世紀にかけてのローマ時代の物が中心だが、日本では大陸から稲が伝わる前、つまり弥生式時代前の縄文時代であったことに注目して欲しい。 つまり魅力の1つは同時代の日本の集落との比較である。

九州や登呂遺跡などの遺跡からの想像複元図を見ると(石の文化と木の文化ではかなりのハンディはあるが)その規模や文化の進み具合の差に愕然とするはず。ガイド氏が同時代の日本の文化との比較を最初に丁寧に説明してくれればそれだけでも驚きの目で見てくれるはず。 それともう1つ忘れてはならないこの遺跡の魅力は通常の発掘遺跡が自然風化した遺跡ゆえ基礎石しか残っていないのに比べ2千年前の建物や生活空間がそっくり我々の目の前に迫ってくる凄さであろうか。

BC79年の夏8月突然近くのベスビオ山が噴火してその熱い火山灰などでそっくり埋まってしまったのだ。つまり日常生活がそのまま埋まってしまったので食べかけのパンや食料品の数々・支払い途中のテーブル上の銅貨(ナポリの考古学博物館内)や、逃げながら死んで行った人間や動物の生々しい死姿が発掘されている。それゆえ考古学に興味のない人にもかなり面白く感じられる遺跡である。 注:人間や動物の死骸の肉の部分は空洞化するが、その空洞へ上から石膏を流し込み、乾いた後に掘り出すと、その時の死んだままの姿で掘り出せる。(遺跡のそこかしこに見られる) (鼻を押さえながら死んだ姿は痛ましい)










ガイド氏に寄れば人口は1万2千人~2万人少々の(この町の規模と、劇場や闘技場の収容人数から割り出している)典型的なローマ帝国時代の地方都市の1つであるとの事。火山灰で埋まる前は町のすぐ傍まで海岸線が来ており、海に流れ出す川の河口に作られた典型的なローマ時代の貿易港として繁栄を謳歌していた様子は、この噴火を生々しく描写している小プリニウスの記述からよく分かる。




(注小プリニウス:当時叔父の大プリニウスはこの地方の総督であり、住民の救出に向かい自ら火山ガスで死ぬ。彼はその様子を友への手紙で残している。詳細は塩野七生著の「ローマ人の物語」を参照 以下写真を追いながらその魅力に迫ろう。 )




ポンペイのフォロ: 中心にジュピター(ギリシャ名=ゼウス)の神殿を配し、回りを2階立ての回廊で囲む青空広場。回りにはアポロンの神殿・裁判所・ローマ皇帝等の像広場・両替商・市場・運搬業者=フォロ横にある宅急便屋 等々。(上記左の写真はフォロの広場 ・右の写真は宅急便屋の看板) 左写真はフォロへ入る前の馬車止めと石畳のメインストリート。歩道と車道が分かれている事に皆感動。 右写真はメインストリートに面した2階建ての住居(一階は店,二階は住居) 無料の上水道の水汲み場:長年の手の力で磨り減っている手すり跡は生々しい。




*裕福の家には水道パイプ(鉛の鉛管)から特別料金を払って自家へ上水道を引いていた。こんな時代に鉛管が引いてある技術に皆驚く。 (注:ローマ人は川の水を飲むと伝染病になることを知っていたらしく、上水道は山の遠くから水道橋を作り綺麗な水を町に引き、飲み水として町の広場〃で流しっ放しにしていた。それゆえ通りには絶えず水が流れておりその水により汚れ物を下水まで運び川やその先の海へ流していた。)




売春宿:「狼の遠吠え」(伊語=ルパナーレ)と呼ぶポンペイ一の人気スポット。 2階建の中へ入ると男女の色っぽいその場面を表す浮世絵風の壁画が現存している。前に浴場、隣には薬屋がある。風呂で綺麗になった後はユンケル飲んで、いざ娼婦館へか!! 今の薬局は十字架のマークが掛かっているが、古代は隣の薬屋の壁にある蛇のマークが一般的。*娼婦館は25軒発掘されている。キリスト教が入る前の世界では性欲は今よりもっと自然の摂理として捉えられていたので倫理観は今よりずっとおおらか。



男湯の浴場跡:サウナ・お湯風呂・水風呂(女性にはなかった)の3点セットが見られる。 *運動場(ローマ人は戦いに備え体を鍛える場所を風呂場の近くに用意した)・着替えルーム・温風が流れていた二重壁の様子。サウナルームで見られる「しずく避け装置」等を見られる。 (写真左は二重壁の中、右写真はしずく避けのスジの姿) 牧神の家:高校の世界史に載っているアレキサンダー大王とダリウス王との「イッソスの戦い」の床モザイクが出たところ。(今コピーが見られる) パン屋跡:現在のピザ屋と全く同じ作りのパン焼釜と小麦を引く石うす。




秘儀荘: 自家の中にワインを造る道具なども備わったポンペイ城壁外の別荘。当時上流階級の婦人達の間で流行した密教=バッカス教・入信儀式を描いたとされている「ポンペイの赤」として有名な赤色がくっきり残るフレスコ画 注:バッカス神(ギリシャ名=ディオニッソス神)酒の神として有名 (注:当時の赤色の絵の具は小さな巻貝の一種から取り出して作ったとの事)



劇場と闘技場跡:闘技場はローマのコロセッオの三分の一もない。ここまで足を伸ばすツアーはないが、この2つはローマ時代の地方都市には必ずあった娯楽施設 以上ざっとですがポンペイに行ったら見ておきたいスポットを列記しておきました。 古代ローマの遺跡の殆どは大都市の下に埋もれているので見る事が出来ないが、ここはそれが見られます。やはりイタリアに行ったら必ず見て欲しいスポットです。




「ポンペイのタイムカプセル歩けば夢ロマン  娼婦・泥棒までが 闊歩する」 

2010年11月15日月曜日

トレドの魅力と素晴らしさ

スペインの首都マドリッドの滞在日数が少なければ「マドリをスキップしてもトレドを見るべし」などとよくガイドブックに書いてある。下手なガイド氏や普通のガイドブックではトレドの魅力が伝わり難いので今日はその魅力を2つほど。 (左の写真は現在のトレド全景)








まずトレドに行くと三方をタホ川に囲まれたその独特の地形に目を見張る。川側に面した部分が崖になっているので陸側部分に厚く壁を作れば籠城に強いということで、古くはローマ時代から重要な軍事拠点として栄えてきた。

  色々な民族が王朝を立てたがこの地形にプラスしてイベリア半島の真ん中ゆえかドイツ系のゴート族の王朝や今のスペインの元を作ったイサベラ女王の時代からはここが長く首都として使われていたとの事。マドリよりもずっと歴史があるのでマドリよりトレドの方が見るべきものが多いということだ。本当に狭い道を歩くだけでも楽しい。歴史を一歩一歩踏みしめる感じは何ともロマンを感じる一瞬である。



「「注:イサベラ女王とは15世紀カスティリア王国の女王であり隣のアラゴンの王と結婚し結束した力で最後に残ったグラナダ王国のアラブ人を追い出し今のスペインの基礎を作った人としてスペインでは誰知らぬ者はいない。また彼女はコロンブスのスポンサーとしてスペインの黄金時代の基礎を作った女王でもある。」」



(右上の写真:トレドの大聖堂 右下=トレドにある世界の三大名画の1つ:オルガス伯爵の埋葬)





そのトレドの古さを物語る事例を2つ述べよう。1つはプラド美術館の中にあるエル・グレコの絵である(左の絵)。その絵はトレドの全景が描かれているのだが、今ツアーで行くとバスでトレドの全景を写真に収める所へ行くのだが、その写真が500年前のグレコの絵とほぼ同じというのに度肝を抜かれる。木の文化と石の文化の違いを感じる一瞬であろうか。



もう一つはガイドからのエピソード:アメリカ人の学生ツアーで来たあるユダヤ系アメリカ人女性のお話。

<<彼女が観光後ホテルで感極まってずっと泣いていたのを不思議に思った同部屋の女性が訪ねたところ、なんと彼女の家に伝わる先祖代々の地図と鍵が500年前のトレドの地図と鍵であり、それが今のトレドの番地と合っており、しかもその門の鍵と合致して扉が開いたとのこと。この出来すぎた作り話のような話が同部屋の彼女のスペイン人の知り合いから知り合いに伝わりそれが新聞にまで載ったとの事。>>

つまり泣いた彼女のご先祖様はイサベラ女王がスペインを統一し、非キリスト教徒のアラブ人とユダヤ人を追い出した時代に逃げ出したユダヤ人家族であり、今は回りまわってアメリカに在住しているという訳である。トレドの古さを物語る話であるがユダヤ人の執念にも驚く何とも面白い話ではないだろうか。

国連のパレスチナ決議のように「昔のユダヤ人の土地を返せ」などといえば世界中でこのトレドのような話がゴロゴロ出てくるだろうが、ヨーロッパ人はきっと次のように言ってユダヤ人には入らせないであろう

「俺はユダヤ人が来る前のゴート人の子孫だ、だからこの土地は俺達のもの。お前らには渡さないぜ」てな調子ではねつけると、どっこい今度はイタリア人が出て来て
「俺達はゴート人より前にここを支配したローマ帝国の子孫だぜ。お前らこそ退きな」てな具合。

おっと忘れていた。ゴート人の後にはイスラムのアラブ人が支配していたな! 延々と続きそうなので今日はここまで。
この古さがヨーロッパの歴史・文化の魅力を感じさせる所であり面白い所であろうか。

2010年10月3日日曜日

スイスで思うこと

スイスといえば何がすぐ浮かぶだろう。自然を利用した観光業、時計などの精密機械工業、牧畜のミルクを利用したチョコ、大都市のそこらじゅうに見られる銀行や保険会社に代表される金融業(GNPではこれが最大らしいが)などがすぐに浮かぶ人はかなりのスイス通。
その中でも今日は観光業の中の一つの例としてユングフラウの登山列車を見てみよう。この列車と施設を見ると、その自然を克服する姿とそれを美しく保つスイス人の努力がこの国の豊かさを作っていると実感できよう。
この列車とは明治11年から16年の歳月を架けアイガー北壁とメンヒの山の壁面内に手掘りのトンネルを堀りヨーロッパ最標高のユングフラウヨッホ駅(3548m)まで引っ張り上げた鉄道のこと。ダイナマイトはあったと思いますが、何せ山の中ゆえ下手にダイナマイトを使うと山が崩れるのか、手掘りでレールを引いたとの事。そのアイガーのトンネル内には2つの窓を開け、そこからグリンデルワルド村や欧州最大氷河などを見降せる装置まで作っている。

その努力たるや本当に頭が下がる。その努力のせいかこの山を目指して世界中から観光客が、夏はその絶景を見るため、冬はスキー客がと押すな押すなの盛況です。
頂上駅からの絶景に驚いた後にもう一度驚かされることがある。それはこの山の頂上の全てのトイレが水洗トイレということだ。この駅の施設にスフィンクスという名の展望台(標高3573m)があるが、富士山で言えば9合目位の所に水洗トイレを作り、汚水を山に残さず下に落とし、ほぼ真水に近い状態にしてから川に流すとのこと。このトイレに皆2度驚く。それゆえスイス中の湖の美しいこと。スイス人の自然へのアプローチの姿勢に我々日本人は素直に頭をたれる。

スイスという国、豊かさとか国民の幸福度とかの統計ではいつもトップグループにいるが実は19世紀初の中頃まではヨーロッパでは貧しい国の筆頭の方に属していたという事実には驚きでしょう。
19世紀中頃というとまだ産業革命がヨーロッパに広まる前です。つまりそれまでの各国の力を比較するには農業が中心。商工業力とか貿易などは産業革命後のことである。日本の江戸時代もそうだが、農業の大きさで国の力を測る頃は山ばかりのスイスなどは一番貧しかった。
ではそれまでのスイスの次男坊以下はどうして生き延びていたかといえば、欧州間の戦争で必要な傭兵として自分の体を売って生き延びてきたのだ。アルプスの少女ハイジの祖父も父も傭兵であり父は傭兵として外国で死んでいるのをご存知か?
(*スイスが傭兵制度を国として禁止したのは1897年のこと。イタリアのバチカン市国だけは例外で、そのスイス人の律儀さと信頼のせいか、名誉職となったバチカン国の警護をスイス人に与えている。写真は16世紀ミケランジェロ・デザインの制服を着
るスイス人傭兵)

フランス革命でマリーアントワネット達を最後まで庇いながら死んで行ったその姿が信用という物を生み、皆からお金を預けられるようになり、それが金融業に発展し、貧しさの象徴だった山川湖がスイスを代表する観光業になり。傭兵で生き残った次男坊たちが持ち帰った時計などが精密機械工業に発展し、これらがスイスの屋台骨になっている。全てこの国が必要に迫られて生まれた産業ですが、かっての貧しさに二度と戻らない為にする努力、ユングフラウの登山列車はその一例だったが、このような努力は日本人が見習っても良いところではないだろうか。九州より小さく、800万ほどの小国が豊かさを保つにはそれなりの努力が必要なのだ。
この国の凄さはまだまだ一杯あるが、後はスイスに来た時に。

そこで最後に一句
「美しく 豊かな国の後ろには、汗と血と、涙の跡が見え隠れ」
今日の一句は少々格調高いかな

2010年8月31日火曜日

ウイーン王宮の宝物館

この頃日本でもハプスブルグという名前をよく聞く。上野の美術館での特別展、宝塚の舞台での演目「エリザベート」等でその名をよく聞くせいか、ウイーンの観光も昔と違いお客様の反応が早い。今日はウイーンのツアーで午後フリーになるお客様へのInfoの1つとして、この頃人気の宝物館の案内。

ウイーンで半日フリーがあると、ウイーンの森へのバスツアー、絵画好きは美術館めぐり、音楽好きはオペラ座見学、モーツアルトハウスの観光などが一般的に人気だが、ウイーン2回目の人や、歴史好きの人などには本宮殿内の(ホフブルグ)のシシー博物館、ウイーン少年合唱団、スペイン乗馬学校、宝物館などをお勧めしたい。
注1:シシーとはオーストリア帝国のフランツ・ヨーゼフ皇帝の后妃エリザベートの事。2人は明治天皇とほぼ同時代。シシーは皇帝の母との折り合いが悪かったせいか、ご主人が堅物だったせいかは分からぬが、早くからウイーンの宮廷を飛び出し、領地のハンガリーやチョコ・北イタリア・バルカン諸国などを旅する事が多くなる。最後はスイスのジュネーブでアナーキストに暗殺された。絶世の美女として今でも人気の后妃」
「注2:シシーの長男が自殺し、甥が後を継ぐがサラエボで殺され、それが引き金で第一次大戦が始まり、その敗戦でハプスブルグ家は崩壊する

さて今日は女性に人気の宝物館の魅力をたっぷりと
。St・ペテルブルグのエルミタージュやモスクワの宝物館、ロンドン塔にあるイギリス王家の財宝をイメージしてもらっては困る。つまりそこまで金銀財宝で埋め尽くされているわけではない。宝石もあるが、それ以外の宝物も多いのです。ロシアのロマノフ王家のように全員が殺され財宝がそっくり残ったわけでもないし、またイギリスのように今でも使われているわけでもないので派手さに欠ける。

ハプスブルグ家はロシアのロマノフ王朝と違い第一次対戦で王家が崩壊しても一族は個人的な財宝を3台の馬車に詰め込んでスイスへ亡命した。残った財宝は主に公的に利用された物ばかりで彼らは手を付けられなかった。つまり中世ハプスブルグ家が世襲にした神聖ローマ帝国・皇帝だが(ヨーロッパの王の中の王)、その戴冠式の公式行事に使う財宝やそれに付随して使われた宗教儀式などの財宝が中心で、いかにハプスブルグ家といえども公的な物として持ち出せなかったようだ。
「注:16c位から神聖ローマ帝国皇帝もハプスブルグ家の世襲になって行くが、形式的ではあってもフランクフルトで王や大司教達の選挙で選ばれたのです。

そうは行っても中世から近代に掛けての名家中の名家ハプスブルグ家です。ウイーンを首都に神聖ローマ帝国の皇帝の位を世襲にした王家ゆえ宝物もハンパではない。
入場チケットを買えば日本語のイヤホーンガイドが無料で付いてくるが、紹介しているのは10点ほどしかなく、その説明も難しい。またガイドツアーもないので解説を少々。
●最初は神聖ローマ帝国の戴冠式に使った冠。10世紀後半最初の神聖ローマ帝国の皇帝オットー大帝(ザクセン出身)以降の皇帝がが使ったといわれた王冠・剣・王珠・十字架の4点セットと戴冠式に使うマント (右写真)

「注:神聖ローマ帝国とはフランスの東部、ドイツ、オランダ(16世紀には独立が始まる)、ベルギー、スイス(13世紀には独立が始まる)、北イタリア、中欧、東欧、バルカン半島の北半分とスペインを結婚で飲み込んだ時には新大陸までも領土を広げたドイツ系を中心にした世界帝国
●12世紀のルドルフ2世の冠。ハプスブルグ家内で使われた冠。長く続いた神聖ローマ帝国が200年前ナポレオンに征服され、神聖ローマ帝国は崩壊。以後はオーストリア・ハンガリー帝国と名前を変え、それ以降の皇帝が戴冠式に使った帝冠 ・王杓・王珠の3点セット
「注:オーストリア・ハンガリー帝国の領土:ほぼ神聖ローマ帝国と同じ領土の大帝国だが、ドイツへの支配力はなく、スイス、オランダは早くに独立し、バルカンの半分と東欧の一部はトルコに取られ、スペイン(新大陸を含む)とウイーンは結婚を繰り返すが、近親結婚の弊害で17c後半にはスペインのハプスブルグ家は途絶える

● カール大帝の想像図:デューラー作(16世紀) 
カール大帝とはローマ帝国崩壊後8世紀の後半、キリスト教を取り入れ西欧を最初にまとめたフランク王国の皇帝
「注:中世の皇帝とはローマ法王から冠を貰う事が出来た王様の事。カール大帝が最初。彼の孫の代、フランク王国は分裂。ゲルマン語圏ではザクセンから出たオットー大帝が10世紀に神聖ローマ帝国の皇帝を名乗る。その後皇帝はフランクフルトで王や大司教達の選挙で選ばれ、その地で戴冠式を行った
● エメラルドの器:こぶし大の大きさに圧倒。コロンビア産
● アクアマリーン:18世紀・ロシア産 492カラット

● メノウの大鉢:コンスタンチヌス大帝(4世紀)時代の物。底に天然の傷「XRISTO」の文字が浮かび上がっている神秘な鉢ゆえ、キリストの聖杯と信じられていた。

● 黄金の羊毛騎士団の首飾:ハプスブルグ家では最高勲章 皇帝が首長

● 黄金の羊毛騎士団のミサ用祭服



● ブルゴーニューの宮廷杯:15世紀ハプスブルグ家は結婚でブルゴーニュー、フランドル(オランダベルギー)を手に入れる。

● ナポレオンとその奥方マリー・ルイーズ(ナポレオンに征服された皇帝の娘)
「注:愛妻ジョセフィーヌを離婚してまで跡継ぎが欲しかったナポレオンは征服した神聖ローマ帝国の皇帝の娘マリー・ルイーズと結婚する。彼女との間には一人男の子が出来る=ナポレオン2世=結核で20代で死ぬ
●ナポレオン2世のゆりかご


ここから先は眉唾物の聖遺物
●キリスト張り付時、彼の手に打ち込まれた釘の一本が入っている聖体顕示台=復活祭などの祭りに「みこし」のように担がれるもの



●キリストの張り付時、頭にかぶせられた茨冠のトゲの一本が入っている聖体顕示台=右横



● キリストが張り付けになった時、彼を刺した槍(800年カール大帝が時の法王より貰って神聖ローマ帝国に伝わる=この槍のお陰かカール大帝は異教徒との戦いに連戦連勝。戴冠式の冠より権威があるものとして代々皇帝に伝わる)
他にもあるが、多すぎるのでこの辺で。入る前に日本語の解説書を買って入ると分かりやすいのでお勧めです。

夫婦で行くと女房殿が騒ぎ出しますよ。出る頃には女房殿の目が吊り上っていること請合い。
くれぐれもご用心あれ。  「金銀ダイヤで目がく~らくら」てか!

2010年8月13日金曜日

南ドイツにあるルードイッヒ王の3つの城

ドイツのロマンチック街道がらみのツアーは各社ともかなりの売れ筋ではないだろうか。そこで今日は夏場にお勧め・南ドイツの旅で良く行く3つの城「白鳥の城」 「リンダーホッフの城」 「ヘレンキムゼーの城」の話を少々
作った人:バイエルン国の王様ルードイッヒ2世。(この時代ドイツはまだ1つではない)
●建築時代:明治2年~18年(1869年~1886年//24歳~41歳=王の死で建築は終わる)
●王の人となり:2m近い長身・美男子。繊細・純粋・ホモ。父の若死にで18歳という若さで帝王学を学ばず王になり激動の時代に放り出された。
●時代背景:日本も明治維新という激動の時代。西欧もアメリカは南北戦争、欧州ではベルリンのプロシアがビスマルク宰相のお陰で強国になり当時の大国オーストリアやフランスに戦争を仕掛け、ドイツを1つにしようとしていた時代。
ルードイッヒ2世も最初はそれなりに政治に目を向けたようだがビスマルク戦争に引きずられてオーストリアに味方し負けてプロシアに賠償金を取られ、フランス戦ではビスマルクに引きずられ、勝ち組にはなったが国家財政の事で閣僚達から口やかましく言われ、政治が嫌になる。

それゆえ彼は自分の趣味の世界に逃避してしまう。特にワーグナーの追っかけとなり、彼のオペラに出てくる城を彼と一緒に6つまで作ろうとする(実際は3つしか作れず、それも2つは未完成)
それゆえ叔父さん一派に捕らえられて最後はミュンヘン郊外の城に幽閉され、そこで自殺している。
閣僚達にしてみれば戦争で悪化した財政の上に、城作りに湯水のごときお金を使われては国家財政が破綻というわけで、幽閉は仕方がなかった処置かも知れぬが。 実際は殺されたのではともいわれている
しかしこの城のお陰か今では南ドイツのこの一帯はドイツ最大の観光スポットとなり毎日観光客で溢れている。まさに歴史の皮肉である 。それでは3つの城の詳細。

◎「白鳥の城」:ロマンチック街道の終点にそびえる街道一の名城。この城は売れ筋のロマンチック街道のツアーで必ず行くので詳細は省く。1つだけ言うならば冬場はお勧めしない。それは城の全景を撮る場所(マリアン橋)が閉鎖されているからである。ツアーで行くと必ずミニバスで城の後ろまで行き、マリアン橋の上から綺麗な城の全景が撮れる。


かくゆう私も30年以上も昔「週間読売」という雑誌のポカリスウェットのCMに抜擢され、この橋の上から、写真をとったのです。なんと見開き1ページです。(写真の一枚は橋の上から=まだ髪の毛が有りましたよ)


◎「リンダーホッフの城」:3つの城の中で唯一完成している城。解説書ではベルサイユのトリアノンに似せてとあるが全く似ていない。こちらの城の方がずっと綺麗で洒落ている。
●1時間に一回出る大噴水は見事:これは地形の落差を利用し、電気などは使っていない。
●室内の家具・調度品の見事さ。全てロココ風で華麗ではあるが優しく見やすい。
●王の寝室のベッドからみる窓の外の景色:そこには城の後ろ側にある人工の滝がある(右は滝の写真) 。その素晴らしさはなんともロマンチック。こればかりは行かないと分からない。



●庭に作った人工のビーナスの洞穴:中はワグナーのオペラ「タンホイザー」そのまま。 小さな船が1艘浮かんでおり、照明具合によってはカプリの「青の洞窟」になる。
まだまだ一杯あるが、あとは実際行ってお確かめ有れ。最低1日は必要です。 (左写真)




◎「ヘレンキムゼーの城」:ミュンヘンからザルツブルグへの途中にある「キムゼー湖」の島の中に有るのでこれも最低半日は必要。余裕のあるツアーでないと行けない。
● 庭と宮殿内:ベルサイユ宮殿そっくり。中はフランス・ルイ王朝の王様達の肖像画で一杯
● 鏡の間:ベルサイユそのままのコピーだが時代が明治ゆえ、こちらの方が豪華に見えるかも (右写真)
●彼の寝室:とても凝っている。昼間寝て、夜起きていた王ゆえ、夜の明かりの照明が特に凝っている=青の球体で出来た照明球。ちょっと妖しい雰囲気 (左写真)

● 浴室の壁:ギリシャ神話のニンフ達。ここで王はお気に入りの小姓達と戯れたようだ。(右写真)
城の魅力は筆ではとても語り尽くせないので何とか行って見て欲しいのだが、無理な人にはお勧めの映画がある。ルキノ・ビスコンティ監督の「ルードイッヒ神々のたそがれ」という映画。この映画の中に3つの城がよく出て来た。
私的にはエリザベート役をやったロミーシュナイダーが今一。やはりこの役は若き日のイングリッド・バーグマンあたりにやってもらいたかった。

監督のビスコンティも主役のヘルムートも本物のルードイッヒ王もみんなホモ。
まさに「ホモがホモを使ってホモの映画を作った」ゆえ、見た後はホモホモするかな!?。

2010年7月26日月曜日

北欧の朝市と魚市場

久しぶりの北欧4カ国の旅でした。豪華客船やフィヨルドなどの自然が北欧ハイライトですが、山国の田舎に育った私にはこれらのハイライトは今ひとつ感動が薄い。今回も好きな市場を紹介します。 今回の市場はヘルシンキの朝市とノルウェーのベルゲン魚市場をご紹介。
まずはヘルシンキの朝市。
昔は魚の屋台が多くありそれなりに活気とバラエティさがあったのだが、魚の屋台が減って、土産屋が増えたのに少しびっくり。それゆえ野菜・果物市場と土産屋・屋台レストランという感じ。最も魚は市場の横に隣接している屋内魚市場があるので用は足りるが、屋台の魚屋さん独特の威勢の良い掛け声がないのが少し寂しい。

この市場で前から日本人の感覚と大きく違うなと思っていたこと1つ。
写真に有るような「さやエンドウ(写真参照)」の大きい豆を生で食べるということ。つまり茹でたり煮たりでなく、中の豆を取り出しそれを生で食べると言うこと。これが今でも納得できない。今回も試食してみたが、どうしても青臭くダメでした。お客様も皆びっくりしていた所を見ると私の感覚が正常か?いつかヘルシンキへ行ったらこの市場で試食をしてください。

この市場はストックホルムなどへ行くシリヤラインやバイキングラインの豪華客船が出る港であり、市場の前には大統領官邸や、ロシア正教のウスペンスキー寺院があったり、大聖堂のある元老院広場から3分以内の観光スッポトゆえフィンランドでは必ず足を運んで下さい。

次はベルゲンの魚市場。
夕方に着いたので店が殆ど終わっていたが、夕食が外だったので皆を連れてこの魚市場を通り抜けたが、まだ何件か店が開いており、魚市場にある独特な雰囲気と活気とを味わえた。ただ生きた魚を飼っておく生簀(写真参照)は全て鍵が掛かっており、魚をさばくダイナミックさは味わえなかったが、ベルゲン名物「茹で甘エビ」やタラコを潰した「たらこチューブ(写真参照)」などを試食をさせてくれる店があり、お客様もそれなりに楽しんでいた。

ここの「茹で甘エビ」はどうしてこんなに美味しいいのだろうか?。その日に揚がった甘エビをここの海水で茹でるとのこと。前から思っていた私の説だが、その海水から来る塩加減と新鮮さがこの味を出すのではないかと密かに思っている。北欧の旅には必ずフィヨルドの旅が入っており、フィヨルドの街ベルゲンには必ず泊まるので、この魚市場も必ず足を運んで試食をして欲しい。

築地の市場も外人観光客が押し寄せる名所になっているとの事。皆~な市場は好きなのだ。

      今の築地で仲買人が言う言葉
「おいおい外人さんよ、マグロに勝手に触るんじゃねーよ」

     初期の頃の日本人海外旅行者がパリなどの魚市場で言った言葉
「おいおいマグロの脂身捨てるんじゃーねーよ。そりゃトロと言って一番高級だぜ」。
最も日本レストランがトロを高く買い占めてからこの言葉はあっというまになくなったが。