2010年11月15日月曜日

トレドの魅力と素晴らしさ

スペインの首都マドリッドの滞在日数が少なければ「マドリをスキップしてもトレドを見るべし」などとよくガイドブックに書いてある。下手なガイド氏や普通のガイドブックではトレドの魅力が伝わり難いので今日はその魅力を2つほど。 (左の写真は現在のトレド全景)








まずトレドに行くと三方をタホ川に囲まれたその独特の地形に目を見張る。川側に面した部分が崖になっているので陸側部分に厚く壁を作れば籠城に強いということで、古くはローマ時代から重要な軍事拠点として栄えてきた。

  色々な民族が王朝を立てたがこの地形にプラスしてイベリア半島の真ん中ゆえかドイツ系のゴート族の王朝や今のスペインの元を作ったイサベラ女王の時代からはここが長く首都として使われていたとの事。マドリよりもずっと歴史があるのでマドリよりトレドの方が見るべきものが多いということだ。本当に狭い道を歩くだけでも楽しい。歴史を一歩一歩踏みしめる感じは何ともロマンを感じる一瞬である。



「「注:イサベラ女王とは15世紀カスティリア王国の女王であり隣のアラゴンの王と結婚し結束した力で最後に残ったグラナダ王国のアラブ人を追い出し今のスペインの基礎を作った人としてスペインでは誰知らぬ者はいない。また彼女はコロンブスのスポンサーとしてスペインの黄金時代の基礎を作った女王でもある。」」



(右上の写真:トレドの大聖堂 右下=トレドにある世界の三大名画の1つ:オルガス伯爵の埋葬)





そのトレドの古さを物語る事例を2つ述べよう。1つはプラド美術館の中にあるエル・グレコの絵である(左の絵)。その絵はトレドの全景が描かれているのだが、今ツアーで行くとバスでトレドの全景を写真に収める所へ行くのだが、その写真が500年前のグレコの絵とほぼ同じというのに度肝を抜かれる。木の文化と石の文化の違いを感じる一瞬であろうか。



もう一つはガイドからのエピソード:アメリカ人の学生ツアーで来たあるユダヤ系アメリカ人女性のお話。

<<彼女が観光後ホテルで感極まってずっと泣いていたのを不思議に思った同部屋の女性が訪ねたところ、なんと彼女の家に伝わる先祖代々の地図と鍵が500年前のトレドの地図と鍵であり、それが今のトレドの番地と合っており、しかもその門の鍵と合致して扉が開いたとのこと。この出来すぎた作り話のような話が同部屋の彼女のスペイン人の知り合いから知り合いに伝わりそれが新聞にまで載ったとの事。>>

つまり泣いた彼女のご先祖様はイサベラ女王がスペインを統一し、非キリスト教徒のアラブ人とユダヤ人を追い出した時代に逃げ出したユダヤ人家族であり、今は回りまわってアメリカに在住しているという訳である。トレドの古さを物語る話であるがユダヤ人の執念にも驚く何とも面白い話ではないだろうか。

国連のパレスチナ決議のように「昔のユダヤ人の土地を返せ」などといえば世界中でこのトレドのような話がゴロゴロ出てくるだろうが、ヨーロッパ人はきっと次のように言ってユダヤ人には入らせないであろう

「俺はユダヤ人が来る前のゴート人の子孫だ、だからこの土地は俺達のもの。お前らには渡さないぜ」てな調子ではねつけると、どっこい今度はイタリア人が出て来て
「俺達はゴート人より前にここを支配したローマ帝国の子孫だぜ。お前らこそ退きな」てな具合。

おっと忘れていた。ゴート人の後にはイスラムのアラブ人が支配していたな! 延々と続きそうなので今日はここまで。
この古さがヨーロッパの歴史・文化の魅力を感じさせる所であり面白い所であろうか。

2010年10月3日日曜日

スイスで思うこと

スイスといえば何がすぐ浮かぶだろう。自然を利用した観光業、時計などの精密機械工業、牧畜のミルクを利用したチョコ、大都市のそこらじゅうに見られる銀行や保険会社に代表される金融業(GNPではこれが最大らしいが)などがすぐに浮かぶ人はかなりのスイス通。
その中でも今日は観光業の中の一つの例としてユングフラウの登山列車を見てみよう。この列車と施設を見ると、その自然を克服する姿とそれを美しく保つスイス人の努力がこの国の豊かさを作っていると実感できよう。
この列車とは明治11年から16年の歳月を架けアイガー北壁とメンヒの山の壁面内に手掘りのトンネルを堀りヨーロッパ最標高のユングフラウヨッホ駅(3548m)まで引っ張り上げた鉄道のこと。ダイナマイトはあったと思いますが、何せ山の中ゆえ下手にダイナマイトを使うと山が崩れるのか、手掘りでレールを引いたとの事。そのアイガーのトンネル内には2つの窓を開け、そこからグリンデルワルド村や欧州最大氷河などを見降せる装置まで作っている。

その努力たるや本当に頭が下がる。その努力のせいかこの山を目指して世界中から観光客が、夏はその絶景を見るため、冬はスキー客がと押すな押すなの盛況です。
頂上駅からの絶景に驚いた後にもう一度驚かされることがある。それはこの山の頂上の全てのトイレが水洗トイレということだ。この駅の施設にスフィンクスという名の展望台(標高3573m)があるが、富士山で言えば9合目位の所に水洗トイレを作り、汚水を山に残さず下に落とし、ほぼ真水に近い状態にしてから川に流すとのこと。このトイレに皆2度驚く。それゆえスイス中の湖の美しいこと。スイス人の自然へのアプローチの姿勢に我々日本人は素直に頭をたれる。

スイスという国、豊かさとか国民の幸福度とかの統計ではいつもトップグループにいるが実は19世紀初の中頃まではヨーロッパでは貧しい国の筆頭の方に属していたという事実には驚きでしょう。
19世紀中頃というとまだ産業革命がヨーロッパに広まる前です。つまりそれまでの各国の力を比較するには農業が中心。商工業力とか貿易などは産業革命後のことである。日本の江戸時代もそうだが、農業の大きさで国の力を測る頃は山ばかりのスイスなどは一番貧しかった。
ではそれまでのスイスの次男坊以下はどうして生き延びていたかといえば、欧州間の戦争で必要な傭兵として自分の体を売って生き延びてきたのだ。アルプスの少女ハイジの祖父も父も傭兵であり父は傭兵として外国で死んでいるのをご存知か?
(*スイスが傭兵制度を国として禁止したのは1897年のこと。イタリアのバチカン市国だけは例外で、そのスイス人の律儀さと信頼のせいか、名誉職となったバチカン国の警護をスイス人に与えている。写真は16世紀ミケランジェロ・デザインの制服を着
るスイス人傭兵)

フランス革命でマリーアントワネット達を最後まで庇いながら死んで行ったその姿が信用という物を生み、皆からお金を預けられるようになり、それが金融業に発展し、貧しさの象徴だった山川湖がスイスを代表する観光業になり。傭兵で生き残った次男坊たちが持ち帰った時計などが精密機械工業に発展し、これらがスイスの屋台骨になっている。全てこの国が必要に迫られて生まれた産業ですが、かっての貧しさに二度と戻らない為にする努力、ユングフラウの登山列車はその一例だったが、このような努力は日本人が見習っても良いところではないだろうか。九州より小さく、800万ほどの小国が豊かさを保つにはそれなりの努力が必要なのだ。
この国の凄さはまだまだ一杯あるが、後はスイスに来た時に。

そこで最後に一句
「美しく 豊かな国の後ろには、汗と血と、涙の跡が見え隠れ」
今日の一句は少々格調高いかな

2010年8月31日火曜日

ウイーン王宮の宝物館

この頃日本でもハプスブルグという名前をよく聞く。上野の美術館での特別展、宝塚の舞台での演目「エリザベート」等でその名をよく聞くせいか、ウイーンの観光も昔と違いお客様の反応が早い。今日はウイーンのツアーで午後フリーになるお客様へのInfoの1つとして、この頃人気の宝物館の案内。

ウイーンで半日フリーがあると、ウイーンの森へのバスツアー、絵画好きは美術館めぐり、音楽好きはオペラ座見学、モーツアルトハウスの観光などが一般的に人気だが、ウイーン2回目の人や、歴史好きの人などには本宮殿内の(ホフブルグ)のシシー博物館、ウイーン少年合唱団、スペイン乗馬学校、宝物館などをお勧めしたい。
注1:シシーとはオーストリア帝国のフランツ・ヨーゼフ皇帝の后妃エリザベートの事。2人は明治天皇とほぼ同時代。シシーは皇帝の母との折り合いが悪かったせいか、ご主人が堅物だったせいかは分からぬが、早くからウイーンの宮廷を飛び出し、領地のハンガリーやチョコ・北イタリア・バルカン諸国などを旅する事が多くなる。最後はスイスのジュネーブでアナーキストに暗殺された。絶世の美女として今でも人気の后妃」
「注2:シシーの長男が自殺し、甥が後を継ぐがサラエボで殺され、それが引き金で第一次大戦が始まり、その敗戦でハプスブルグ家は崩壊する

さて今日は女性に人気の宝物館の魅力をたっぷりと
。St・ペテルブルグのエルミタージュやモスクワの宝物館、ロンドン塔にあるイギリス王家の財宝をイメージしてもらっては困る。つまりそこまで金銀財宝で埋め尽くされているわけではない。宝石もあるが、それ以外の宝物も多いのです。ロシアのロマノフ王家のように全員が殺され財宝がそっくり残ったわけでもないし、またイギリスのように今でも使われているわけでもないので派手さに欠ける。

ハプスブルグ家はロシアのロマノフ王朝と違い第一次対戦で王家が崩壊しても一族は個人的な財宝を3台の馬車に詰め込んでスイスへ亡命した。残った財宝は主に公的に利用された物ばかりで彼らは手を付けられなかった。つまり中世ハプスブルグ家が世襲にした神聖ローマ帝国・皇帝だが(ヨーロッパの王の中の王)、その戴冠式の公式行事に使う財宝やそれに付随して使われた宗教儀式などの財宝が中心で、いかにハプスブルグ家といえども公的な物として持ち出せなかったようだ。
「注:16c位から神聖ローマ帝国皇帝もハプスブルグ家の世襲になって行くが、形式的ではあってもフランクフルトで王や大司教達の選挙で選ばれたのです。

そうは行っても中世から近代に掛けての名家中の名家ハプスブルグ家です。ウイーンを首都に神聖ローマ帝国の皇帝の位を世襲にした王家ゆえ宝物もハンパではない。
入場チケットを買えば日本語のイヤホーンガイドが無料で付いてくるが、紹介しているのは10点ほどしかなく、その説明も難しい。またガイドツアーもないので解説を少々。
●最初は神聖ローマ帝国の戴冠式に使った冠。10世紀後半最初の神聖ローマ帝国の皇帝オットー大帝(ザクセン出身)以降の皇帝がが使ったといわれた王冠・剣・王珠・十字架の4点セットと戴冠式に使うマント (右写真)

「注:神聖ローマ帝国とはフランスの東部、ドイツ、オランダ(16世紀には独立が始まる)、ベルギー、スイス(13世紀には独立が始まる)、北イタリア、中欧、東欧、バルカン半島の北半分とスペインを結婚で飲み込んだ時には新大陸までも領土を広げたドイツ系を中心にした世界帝国
●12世紀のルドルフ2世の冠。ハプスブルグ家内で使われた冠。長く続いた神聖ローマ帝国が200年前ナポレオンに征服され、神聖ローマ帝国は崩壊。以後はオーストリア・ハンガリー帝国と名前を変え、それ以降の皇帝が戴冠式に使った帝冠 ・王杓・王珠の3点セット
「注:オーストリア・ハンガリー帝国の領土:ほぼ神聖ローマ帝国と同じ領土の大帝国だが、ドイツへの支配力はなく、スイス、オランダは早くに独立し、バルカンの半分と東欧の一部はトルコに取られ、スペイン(新大陸を含む)とウイーンは結婚を繰り返すが、近親結婚の弊害で17c後半にはスペインのハプスブルグ家は途絶える

● カール大帝の想像図:デューラー作(16世紀) 
カール大帝とはローマ帝国崩壊後8世紀の後半、キリスト教を取り入れ西欧を最初にまとめたフランク王国の皇帝
「注:中世の皇帝とはローマ法王から冠を貰う事が出来た王様の事。カール大帝が最初。彼の孫の代、フランク王国は分裂。ゲルマン語圏ではザクセンから出たオットー大帝が10世紀に神聖ローマ帝国の皇帝を名乗る。その後皇帝はフランクフルトで王や大司教達の選挙で選ばれ、その地で戴冠式を行った
● エメラルドの器:こぶし大の大きさに圧倒。コロンビア産
● アクアマリーン:18世紀・ロシア産 492カラット

● メノウの大鉢:コンスタンチヌス大帝(4世紀)時代の物。底に天然の傷「XRISTO」の文字が浮かび上がっている神秘な鉢ゆえ、キリストの聖杯と信じられていた。

● 黄金の羊毛騎士団の首飾:ハプスブルグ家では最高勲章 皇帝が首長

● 黄金の羊毛騎士団のミサ用祭服



● ブルゴーニューの宮廷杯:15世紀ハプスブルグ家は結婚でブルゴーニュー、フランドル(オランダベルギー)を手に入れる。

● ナポレオンとその奥方マリー・ルイーズ(ナポレオンに征服された皇帝の娘)
「注:愛妻ジョセフィーヌを離婚してまで跡継ぎが欲しかったナポレオンは征服した神聖ローマ帝国の皇帝の娘マリー・ルイーズと結婚する。彼女との間には一人男の子が出来る=ナポレオン2世=結核で20代で死ぬ
●ナポレオン2世のゆりかご


ここから先は眉唾物の聖遺物
●キリスト張り付時、彼の手に打ち込まれた釘の一本が入っている聖体顕示台=復活祭などの祭りに「みこし」のように担がれるもの



●キリストの張り付時、頭にかぶせられた茨冠のトゲの一本が入っている聖体顕示台=右横



● キリストが張り付けになった時、彼を刺した槍(800年カール大帝が時の法王より貰って神聖ローマ帝国に伝わる=この槍のお陰かカール大帝は異教徒との戦いに連戦連勝。戴冠式の冠より権威があるものとして代々皇帝に伝わる)
他にもあるが、多すぎるのでこの辺で。入る前に日本語の解説書を買って入ると分かりやすいのでお勧めです。

夫婦で行くと女房殿が騒ぎ出しますよ。出る頃には女房殿の目が吊り上っていること請合い。
くれぐれもご用心あれ。  「金銀ダイヤで目がく~らくら」てか!

2010年8月13日金曜日

南ドイツにあるルードイッヒ王の3つの城

ドイツのロマンチック街道がらみのツアーは各社ともかなりの売れ筋ではないだろうか。そこで今日は夏場にお勧め・南ドイツの旅で良く行く3つの城「白鳥の城」 「リンダーホッフの城」 「ヘレンキムゼーの城」の話を少々
作った人:バイエルン国の王様ルードイッヒ2世。(この時代ドイツはまだ1つではない)
●建築時代:明治2年~18年(1869年~1886年//24歳~41歳=王の死で建築は終わる)
●王の人となり:2m近い長身・美男子。繊細・純粋・ホモ。父の若死にで18歳という若さで帝王学を学ばず王になり激動の時代に放り出された。
●時代背景:日本も明治維新という激動の時代。西欧もアメリカは南北戦争、欧州ではベルリンのプロシアがビスマルク宰相のお陰で強国になり当時の大国オーストリアやフランスに戦争を仕掛け、ドイツを1つにしようとしていた時代。
ルードイッヒ2世も最初はそれなりに政治に目を向けたようだがビスマルク戦争に引きずられてオーストリアに味方し負けてプロシアに賠償金を取られ、フランス戦ではビスマルクに引きずられ、勝ち組にはなったが国家財政の事で閣僚達から口やかましく言われ、政治が嫌になる。

それゆえ彼は自分の趣味の世界に逃避してしまう。特にワーグナーの追っかけとなり、彼のオペラに出てくる城を彼と一緒に6つまで作ろうとする(実際は3つしか作れず、それも2つは未完成)
それゆえ叔父さん一派に捕らえられて最後はミュンヘン郊外の城に幽閉され、そこで自殺している。
閣僚達にしてみれば戦争で悪化した財政の上に、城作りに湯水のごときお金を使われては国家財政が破綻というわけで、幽閉は仕方がなかった処置かも知れぬが。 実際は殺されたのではともいわれている
しかしこの城のお陰か今では南ドイツのこの一帯はドイツ最大の観光スポットとなり毎日観光客で溢れている。まさに歴史の皮肉である 。それでは3つの城の詳細。

◎「白鳥の城」:ロマンチック街道の終点にそびえる街道一の名城。この城は売れ筋のロマンチック街道のツアーで必ず行くので詳細は省く。1つだけ言うならば冬場はお勧めしない。それは城の全景を撮る場所(マリアン橋)が閉鎖されているからである。ツアーで行くと必ずミニバスで城の後ろまで行き、マリアン橋の上から綺麗な城の全景が撮れる。


かくゆう私も30年以上も昔「週間読売」という雑誌のポカリスウェットのCMに抜擢され、この橋の上から、写真をとったのです。なんと見開き1ページです。(写真の一枚は橋の上から=まだ髪の毛が有りましたよ)


◎「リンダーホッフの城」:3つの城の中で唯一完成している城。解説書ではベルサイユのトリアノンに似せてとあるが全く似ていない。こちらの城の方がずっと綺麗で洒落ている。
●1時間に一回出る大噴水は見事:これは地形の落差を利用し、電気などは使っていない。
●室内の家具・調度品の見事さ。全てロココ風で華麗ではあるが優しく見やすい。
●王の寝室のベッドからみる窓の外の景色:そこには城の後ろ側にある人工の滝がある(右は滝の写真) 。その素晴らしさはなんともロマンチック。こればかりは行かないと分からない。



●庭に作った人工のビーナスの洞穴:中はワグナーのオペラ「タンホイザー」そのまま。 小さな船が1艘浮かんでおり、照明具合によってはカプリの「青の洞窟」になる。
まだまだ一杯あるが、あとは実際行ってお確かめ有れ。最低1日は必要です。 (左写真)




◎「ヘレンキムゼーの城」:ミュンヘンからザルツブルグへの途中にある「キムゼー湖」の島の中に有るのでこれも最低半日は必要。余裕のあるツアーでないと行けない。
● 庭と宮殿内:ベルサイユ宮殿そっくり。中はフランス・ルイ王朝の王様達の肖像画で一杯
● 鏡の間:ベルサイユそのままのコピーだが時代が明治ゆえ、こちらの方が豪華に見えるかも (右写真)
●彼の寝室:とても凝っている。昼間寝て、夜起きていた王ゆえ、夜の明かりの照明が特に凝っている=青の球体で出来た照明球。ちょっと妖しい雰囲気 (左写真)

● 浴室の壁:ギリシャ神話のニンフ達。ここで王はお気に入りの小姓達と戯れたようだ。(右写真)
城の魅力は筆ではとても語り尽くせないので何とか行って見て欲しいのだが、無理な人にはお勧めの映画がある。ルキノ・ビスコンティ監督の「ルードイッヒ神々のたそがれ」という映画。この映画の中に3つの城がよく出て来た。
私的にはエリザベート役をやったロミーシュナイダーが今一。やはりこの役は若き日のイングリッド・バーグマンあたりにやってもらいたかった。

監督のビスコンティも主役のヘルムートも本物のルードイッヒ王もみんなホモ。
まさに「ホモがホモを使ってホモの映画を作った」ゆえ、見た後はホモホモするかな!?。

2010年7月26日月曜日

北欧の朝市と魚市場

久しぶりの北欧4カ国の旅でした。豪華客船やフィヨルドなどの自然が北欧ハイライトですが、山国の田舎に育った私にはこれらのハイライトは今ひとつ感動が薄い。今回も好きな市場を紹介します。 今回の市場はヘルシンキの朝市とノルウェーのベルゲン魚市場をご紹介。
まずはヘルシンキの朝市。
昔は魚の屋台が多くありそれなりに活気とバラエティさがあったのだが、魚の屋台が減って、土産屋が増えたのに少しびっくり。それゆえ野菜・果物市場と土産屋・屋台レストランという感じ。最も魚は市場の横に隣接している屋内魚市場があるので用は足りるが、屋台の魚屋さん独特の威勢の良い掛け声がないのが少し寂しい。

この市場で前から日本人の感覚と大きく違うなと思っていたこと1つ。
写真に有るような「さやエンドウ(写真参照)」の大きい豆を生で食べるということ。つまり茹でたり煮たりでなく、中の豆を取り出しそれを生で食べると言うこと。これが今でも納得できない。今回も試食してみたが、どうしても青臭くダメでした。お客様も皆びっくりしていた所を見ると私の感覚が正常か?いつかヘルシンキへ行ったらこの市場で試食をしてください。

この市場はストックホルムなどへ行くシリヤラインやバイキングラインの豪華客船が出る港であり、市場の前には大統領官邸や、ロシア正教のウスペンスキー寺院があったり、大聖堂のある元老院広場から3分以内の観光スッポトゆえフィンランドでは必ず足を運んで下さい。

次はベルゲンの魚市場。
夕方に着いたので店が殆ど終わっていたが、夕食が外だったので皆を連れてこの魚市場を通り抜けたが、まだ何件か店が開いており、魚市場にある独特な雰囲気と活気とを味わえた。ただ生きた魚を飼っておく生簀(写真参照)は全て鍵が掛かっており、魚をさばくダイナミックさは味わえなかったが、ベルゲン名物「茹で甘エビ」やタラコを潰した「たらこチューブ(写真参照)」などを試食をさせてくれる店があり、お客様もそれなりに楽しんでいた。

ここの「茹で甘エビ」はどうしてこんなに美味しいいのだろうか?。その日に揚がった甘エビをここの海水で茹でるとのこと。前から思っていた私の説だが、その海水から来る塩加減と新鮮さがこの味を出すのではないかと密かに思っている。北欧の旅には必ずフィヨルドの旅が入っており、フィヨルドの街ベルゲンには必ず泊まるので、この魚市場も必ず足を運んで試食をして欲しい。

築地の市場も外人観光客が押し寄せる名所になっているとの事。皆~な市場は好きなのだ。

      今の築地で仲買人が言う言葉
「おいおい外人さんよ、マグロに勝手に触るんじゃねーよ」

     初期の頃の日本人海外旅行者がパリなどの魚市場で言った言葉
「おいおいマグロの脂身捨てるんじゃーねーよ。そりゃトロと言って一番高級だぜ」。
最も日本レストランがトロを高く買い占めてからこの言葉はあっというまになくなったが。

2010年6月25日金曜日

ハドリアヌスの長城








今日はイギリスの北の果て、スコットランドの地に残るローマ帝国の遺跡、ハドリアヌス皇帝の作った長城のお話。万里の長城の小型版といえばお分かりであろうか。紀元後122年に工事が開始され、完成には10年かかったとの事。北海のニューカッスルからアイルッシュ海のカーライルまでの118kmにも及ぶ長城で、ローマの軍人と原住民との共同作業で作った壁である。(原住民はローマの軍隊に25年補助兵として勤務すれば、ローマ市民権をもらえた)

中国の万里の長城は明の時代に修復されたので、しっかり残っているが、ハドリアヌスの長城の壁は1500年程のあいだ放って置かれたので、壁近くの人たちが建築資材として次々に持って行ってしまった。それゆえ今見られるのは部分〃であり、それも殆どが残骸である。
オリジナルの壁の高さは4~5m、厚さ約3m、約1.5kmの間隔で監視所も設置されていたとの事。また6km間隔で要塞も建築され、要塞には500人から1000人のローマ兵が配備され、いざ敵の侵入に備えていたと推定されている。
ローマ帝国崩壊後もこの壁はイングランドとスコットランドの国境として機能し(今の国境はこの壁より少し北にある)、現在まで心理的に影響を与えた壁である。

今回のバスドライバーは新人だったらしく、いつもとは違う長城の遺跡へ連れて行かれた。とんでもない山の上であまり観光客が行かない場所である。いつもと違うので私も戸惑ってしまったが、お客様は途中のお花畑が綺麗だったためか皆楽しそうではあった。

ハドリアヌス皇帝とはローマ帝国が一番領土を広げたトライアヌス皇帝の次の皇帝であり、実際にローマの領土を自分の足で回った皇帝として有名である。北はこのスコットランド、西はスペイン~モロッコ、南はアルジェリアやエジプトの果て、南東は中近東から南ロシア、東はライン川とドナウ川に沿って、広大な領土を本当に自らの足で回り、その場所〃で帝国と蛮族との国境の警備をチェックし、具体的に壁などを作らせた皇帝として歴史に名を残す。

それまで攻勢一本やりのローマが守りに入ったというと消極的な感じを受けるが、この領土の地図を見ればこの皇帝の先見性が伺われる。足場を固めねば中から崩れるのが帝国である。歴史を知っている人なら彼の死後ローマは300年近くその繁栄を享受したことはご存知のはず。やはり彼の選択は正しかったのではないだろうか。

よほどの歴史好きの人しか行かない場所ではあるが、今回はイタリア人夫妻1組と我々のバスだけであった。ローマ帝国の子孫であるイタリア人がいたとは何か歴史の因果を感じる。

果てしなく続く壁を見ると、またオリジナルの壁を想像すると何かしら心の底から感動すること請け合い。やはりスコットランドまで足を伸ばしたら、是非見ておきたい遺跡の1つである。
現代緊迫した国境といえば中国・北朝鮮、南北朝鮮、などがすぐに連想される。そこでこんな落ちで閉めよう。
「おーい壁の向こうの将軍さんよ、経済がたがたじゃねーの。いい加減に辞めて引っこみな。今なら命だけは助かるぜー」
「馬鹿やろー!俺を誰だと思っているんだー。俺の名前は金だぜ。金~!ドルでも元でもいくらでも刷すれるのよー! それでも がたがた言えば原爆打ち込むぞ」

PS:今日の落ちが分からない人の為に:北朝鮮が偽札刷っていることを知らないと全く分からない

PS:ハドリアヌス皇帝は長い視察旅行が終わった後、ローマ近郊のチボリの地に自分の回った帝国の中から印象深い建物のコピーを作らせ晩年はそこを別荘代わりとして使ったとの事。その遺跡の一部が残っていますが、ローマからバスで1時間くらいでいけます。写真は古代の別荘の復元図


PS:地図他の写真は塩野七生の「ローマ人の物語より」

2010年6月10日木曜日

ローマらしい遺跡 パンテオン




ローマの市内観光の中では行けない観光スポットの一つにパンテオンがある。約2千年前に初代ローマ皇帝オクタビアヌスの片腕のアグリッパにより建てられ、一度火事に会ったのを同じローマ皇帝のハドリアヌスによって再建された神殿である。
観光がゆったりしていた昔は、またバスがもっとローマの中心部に入れた頃は観光でも足を踏み入れたのですが、スペイン階段あたりから20分ほど歩かざるを得ないので、旅行会社もツアーには入れない。自由時間が有れば私としては是非にでもと勧めている。行ってほしい遺跡の1つである。

ローマ遺跡は帝国が滅ぶ前後に侵入者の蛮族ゲルマン人やその後のキリスト教徒が教会を作るために壊されているので古代ローマを偲ぶ建物はこの神殿とコロッセオの2つ位しか残っていないのだが、コロッセオが三分の一しか残っていないのに比べこの神殿はほぼ完全に近い形で残っているので古代ローマを偲ぶには一番適した遺跡といってよいであろう。

ローマ観光では必ず入るバチカンのお寺にミケランジェロが設計したといわれる丸屋根があるが、その丸屋根部分をそのままそっくり地上に降ろした感じの建物と言えば想像できるでしょうか。お椀を逆さに伏せた感じの建物といった方が分かりやすいか。

パンテオンとはローマの言葉で「神々の館」という意味で、ローマで拝まれていた神々を中で一同に祭っていた神殿との事。進入してきたゲルマンの野蛮な民も中の貴重品を取り外すだけで、またキリスト教徒も壊せば自分が押しつぶされてしまうので壊すに壊せずキリスト教のお寺として使って来たのが歴史的背景である。あるいは壊すには勿体無いと感じたのであろうか、それほど凄い建物である。

地図を片手にローマのごちゃごちゃした下町を歩くと突然クーポラ型の神殿が現れる。A・AGRIPPAと刻まれた正面部分と大きな一本柱が何本も表玄関を飾っているのですぐ分かるのだが、この神殿の迫力はやはり中に入ってからであろう。

中での第一印象は2千年前によくこんな物を建てられたなというのが素朴な印象である。そして落ち着くと「ドーム型の屋根は落ちて来ないのかしらん」と心配になる。それは屋根の頂上部分がすっぽり丸く抜けて空が見えるからであるが、これは明り取りの役割をしており、雨の少ないローマでは降った雨も下に貯めて使うための装置でもある。しばらくたたずむと、その開いた丸屋根から入ってくる明かりにホッとし、次に建物の厳粛さと構造に圧倒され皆無言になるはず。何とも神を感じるローマらしい建物である。こんな所で古代ローマ人と対話するのも旅の楽しさのひとつであろう。
「機械もないのにこんな建物 どないして お前らローマ人は作ったん。えー答えてみいー」 てな具合に。

建物の中は有名人のお墓にもなっており、ローマ帝国崩壊後バラバラだったイタリアを今のイタリアの形に統一したビットリア・エマニュエル2世のお墓とルネサンスの3大巨匠のラファエロのお墓があるのでついでに見ておいて欲しい。 

「パンテオン作ったお人はアグリッパ。わたしゃ お口を アンぐリッパ!」  我ながら詰まんない落ちでした。

2010年5月26日水曜日

トルコにはアジアとヨーロッパが2つあるよ




マルコポーロが 800年前に東西を行き来した頃は何年もかかったのだが、今ではここトルコも直行便のお陰で12時間程と身近な国になった。そのアジアの東の端が韓国、日本であれば、西の端のアジアがシルクロードの終点トルコである。そのトルコという国、アジアとヨーロッパが接する2つの顔を持つ国という事を知る人は意外と少ない。

その東西2つが接する所がトルコ最大の都会イスタンブールのボスポラス海峡である。海峡の 一番狭い所はなんと600メートルとの事。その距離のお陰で古代からアレキサンダー大王やジュリアス・シーザーなどの征服者達が渡った海峡だが戦略的に重要地点ゆえ、西欧諸国が重要視している場所である。つまりロシアの艦隊が黒海からボスポラス海峡を通って隙あらば地中海へ出ようとしている場所でもある。
EU諸国としてはトルコをEUに入れるそぶりで引っ張りながら、NATO軍事同盟に加盟させロシアを押さえているという複雑な地形である。

今回は高いツアーのお陰で時間的に余裕があったので、ガイドに頼んで海峡を渡ってもらいアジアサイドに行って来た。そこは歌に出てくる「ウシクダラ」という何もないところだが、そこの海岸からヨーロッパサイドと海峡にかかる橋の写真を撮って帰って来ただけだったが、観光スポットが全てヨーロッパサイドに固まっているイスタンブールゆえアジアサイドに立ったという事は皆それなりに感動したようだった。  
特に橋を往復するとき、橋の最後にかかる黄色の看板「WELCOM TO AJIA=アジアにようこそ」「WELCOM TO EUROPA=ヨーロッパにようこそ」を目にした時には感動がピークに達したようだった。

そのアジアサイドの海岸で面白い工事を見た。大成建設の看板が立てかけてあるのですぐ分かるのだが、映画や小説で有名なオリエント急行の終点駅を海峡トンネルを掘ってアジアと繋げる工事である。つまりヨーロッパサイドで終わっている有名なオリエント・エックスプレスを船を使わず、乗り換えなしでアジアまで繋げる工事との事。

鉄道といえば遅ればせながらアメリカに新幹線を売り込んでいるようだが、こればかりは、いかに親日的なトルコでも日本の新幹線を買えない歴史的背景がある。それはこの国が昔から付き合いのある技術国ドイツという国が大きく立ちはだかっているからである。 そんなハンディがあるにも関わらずボスポラスに掛けた第2の橋は日本の建設会社が1973年に受注し、とても好評。その受注合戦は今でも語り草になっているが、時の欧米の首脳達が強烈に抗議したとのこと。サッチャー首相が急先鋒だったことは私でも記憶している。
だからこそ今回のトンネル工事の件、大成さん良くがんばったと誉めてあげたい。トルコ国民に日本の技術力の凄さを見せ、また喜ばれることを期待したい。

ともかく顔は西洋、心は東洋という魅力的な国トルコ。これからもっと人気の出る国のひとつであろう。ここトルコへの日本人観光客の半分以上が「トルコが良かった」との口コミで来ていることがそれを示している。ちなみにここへ来る時は塩野七生著「コンスタンチノープル陥落」を見てくると旅が身近になって面白いこと請け合い。是非読んで欲しい。

熟年には「ウシクダラ、ウシクダラはるばる来れば」なんて江利チエミの歌もあったが。今では「それって何」と言われるのが落ちなので、この歌の事は紹介しないが、ウシはウシでもこの国の「牛」や「ヨーグルト・生チーズ」を沢山食べに来て欲しい。トルコ民族も元をたどれば中国の北西にいた遊牧民ゆえ東洋の香りを残した肉や乳製品がやたらと上手い。 つまり味付けが日本人好みなのだ。
特に肉の「シシケバブ」、ヨーグルト・ドリンクの「アイラン」という飲み物は私の一押しです。    
「ケバブ食べてアイラン飲もう」ってか  「淫乱」ではありません、「アイラン」です。

PS:高いツアーでの特典紹介
①今回イスタンブールのインターコンチネンタルホテルへ3泊。内容が14階以上でボスポラス海峡が見える部屋との条件でしたが、14階以上に泊まる宿泊客には毎日16階のラウンジでアルコールを含む飲み物と軽いつまみの食べ放題、飲み放題が付いている。高いツアーを選んだ場合はこんな特典が付いている事が多いので行く前に確認すると良いでしょう。今回頂上レストランが夕食として付いていたので、夕食前に皆でここへ集まり一杯飲んでからレストランへ行った。でも夕食会場での飲み物代は高かったよ。
②通常ホテルのサウナやプールは無料だが、このホテルのトルコ風呂とその前にあるスチームサウナも勿論無料。是非夫婦でトライしてもらいたい。疲れも取れるし、トルコ風呂のイメージが変るかも。
勿論水着をお忘れなく。

2010年4月28日水曜日

久しぶりのエジプト



エジプトは6,7年ぶりになるのだろうか? ほこりっぽい町の喧騒、ノンビリした田舎とゴミの散らかり具合、何も変っておらず懐かしかった。カイロでの車の渋滞が増えたのとチップをねだる人の減り具合でこの国がゆっくりではあるが豊かさへ向かっているのが体感できる。

G氏によると大統領は死ぬまで権力を離さない、つまり選挙もそんなに公平ではなさそうだし、政治家のワイロは当たり前の世界がアラブの常識とのこと。進歩もゆっくりなのは仕方がないか。最も政治家の腐敗は日本も似たりよったりだが。

今回のG氏はいかにもエジプトらしくノンビリおおらか。日本人の典型の私との対比が目立って仕方がない。それにしても北はアレキサンドリアから南はスーダン国境まであと50キロのアブシンベルまで1500キロを8日間で観光する強行スケジュールというのに皆元気に付いてくる。恐るべし日本人の熟年パワー。

日本人の勤勉さとG氏のノンビリさのギャップが楽しかった。昔はこのギャップに次の言葉を皆が憶えて帰った。それは「インシャラー=神の召すままに」と「ボクラ=明日」という2つの言葉である。

G氏が遅れて来た時よく言ったものだった「インシャラー=遅れたのは私のせいではない。神がそうさせたのだ」だと。バスが壊れても、飛行機が飛ばなくても、部屋がなくても、全て「インシャラー」の一言で終わり。そしてどうにもならないと「ボクラ=全ては明日」の一言。ところが今回は全てがスケジュール通り。ルクソールの観光などは摂氏47度の中の砂漠を歩くのだが、この言葉を使う暇もなかった。この2つの言葉はすでに死語になったようだ。

旅を管理する側としては時間通りに行って欲しいのだが、私的にはエジプトはいつまでもインシャラーとボクラの世界でいて欲しい様な気もするのだが。
「エジプトは いつでもボクラと インシャラー」
ついでにこんな歌知っています?
「ボクラはみんな生ーきている。だかーらみんなでインシャラー」 詰まんない落ちだった。

2010年2月28日日曜日

パリMouffetard通りの市場にて



パリMouffetard通りの市場にて
パリで1日フリーになったので、お客様を追い出してから久しぶりにMouffetard通りの市場に行ってみた。昔から自分には男のくせに市場や朝市などへ行くと妙に浮き浮きするという変なくせがある。どうやらこれは死ぬまで治らぬかと思いながら地下鉄7号線Censier Daubentonに降り立った。

パリでは曜日を決めてあちこちと朝市が立つのだが、ホテルの近くにその朝市がなかったので何十年ぶりにここに来て見たのだが、11時頃ゆえかMouffetard通りも人がまばらだったのが少し気になった。昔はもう少し活気があったような気がしたのだが、やはり・リーマン以来の不景気がパリにも影響しているのだろうか?
昼食までは少し間があったので、地下鉄駅Censier Daubentonの傍のS-Medard教会の中で時間を潰す。ヨーロッパの特にカトリック系の教会は何気にふらっと入っても中の彫刻、絵画などを見るのが楽しい。いつの頃よりか私のささやかな楽しみになった。12時頃になったので再び通りを歩いて見たがレストランが多い通りなのに平日ゆえか人もまばら、やはりここは夕方から夕食に掛けてこなければつまらないのか。

しかし何よりも驚いたことが1つあった。それは中国人らしき東洋人が経営する日本食レストランが3つも4つもあったことである。欧米では健康ブームもあってか「すし」や「鉄板焼」の日本食がずっとブームで大変な人気である。それゆえ「SUSHI]とか日本食という看板を掲げれば客が入るということで外人経営の日本食レストランがやけに目につくようになった。板さんが日本人ならまだ良いのだが、中国人などが板長ならば何日前のスシを食べさせるか分かった物ではないということで、パリの大使館などでは本当の日本食レストランには何か目印をなどという動きも有るやに聞くが。

2件まで客を装って声を掛けて見るとウェイターから料理人まで全て中国系だった。他の2件は表構えからして日本人経営ではないと分かったので中の様子とメニューだけを見てギブアップ。こんな店の共通点はスシと焼き鳥メニューがやけに多い。肉は何とかなるが、生のスシに至ってはお腹を壊してはいけないと思い早々に引き上げた。これならオペラ座近くの日本食・「国虎屋」の讃岐うどんの方がずっと満足感があるゆえ、早々とここを後にメトロの駅に向かった。

仏レストランも人が並ぶほど入っていれば意外とつられて入るのだが今日の様にあまりにも空いていると返って入り辛いものである。こんな下町のレストランの定食「Menu」を選べば結構パリらしい充実感に浸れるのだが、歳をとったせいか重いのと塩けの強いソースが段々苦手になってきたのも影響したのか、自然にうどん屋へ足が向いてしまった。

うどん屋の帰りにスーパ「MONOPRIX」でノルウェーの「塩ゆで甘エビ冷凍」の一袋と私のお気に入りの生チーズ「ROUY」を買ってホテルに帰った。仏が最後の場合は「ROUY」という生チーズがいつも日本へのお土産の定番である(帰った頃には臭いが少々きつくなっているのでビニールで何重にも巻くべし)。
ついでに定番の塩バターキャラメルを探してこれもゲット。夕食はホテルでのさびしい夕食であったがワインだけはスーパで10ユーロ以上するリッチな白で乾杯(経験からスーパで10ユーロ以上ならば味としては裏切られないのでお試しあれ)

「生チーズ 海老とワインで 二つぼし」 今宵の夕食は味だけは星付レストラン並でした